小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

私とおねえちゃんと勇気の護符

INDEX|4ページ/5ページ|

次のページ前のページ
 

 ――イシュタル様、おねえちゃんをお守り下さい。どうか、勇気と強さを、おねえちゃんに。
 その切なる願いを最後に、彼女の意識はとうとう途切れた。護符を手に握りしめたまま膝から崩れ落ちる。その幼い頬を、細い手足を、冷たい雨がひっきりなしに打つ。健気なこの子を、廟の者が気付くであろう朝まで放っておくのはとても忍びない。
 彼女の小さな身体を、柔らかな光で真綿のように包む。やがて身体はふうわりと浮かび、山肌を眼下に望むほどの高さまで上昇した。そうしてゆっくりと下っていく。麓へ。
 帰りなさい。運んであげましょう。
 身がちぎれそうな思いで末子の帰りを待ちわびる、一つの家へ。



「――ニャ! アーニャ!」
 よく知った声が繰り返し自分を呼んでいる。誰、と考えるまでもない。生まれてからずっと、一番多く聞いてきた声。だけど山での苦しい道程を越えた今、それはひどく懐かしく、アーニャを心から安堵させた。
 護符を掴んだと思った瞬間に散らばった意識の欠片が、だんだん集まってくる。顔をしきりに打つのは雨粒だろうか。そうだ、自分は雨が降りしきる地母神廟で護符を頂いて、そして山を下りるはずだったのに。目の前にあるのは雨に濡れた色濃い森林ではなく、見慣れた姉の顔だった。だが、そこに浮かんでいる表情をアーニャは見たことがなかった。
 ――泣いている。
 アンジェリカの瞳から大粒の涙が零れている。雨だと思っていたものはアンジェリカの涙だったこと、そして背中の感触から自分が地面に横たわっていることをアーニャはゆっくりと理解した。節々の痛みを堪えながら、上半身だけを慎重に起こす。アンジェリカは地面にしゃがみ込み、両手で顔を抑えてなおも静かに泣いていた。
「おねえちゃん……どうして」
 辺りを見回せばやはり見知った景色。他でもなく我が家の前庭だった。両親に兄姉もすぐ傍にいて、自分たちをおっかなびっくり見下ろしている。一体いつの間に自分は家まで戻ってきたのだろう。山を下りた覚えはまるでないのだが、まさか夢現のうちに歩いてきたとでもいうのだろうか。ともかく地母神廟に到着してからの記憶は、糸を切ったようにぷつりと切れている。
 アーニャが途切れた先を必死で探っていると、
「馬鹿っ!」
 頬に鋭い痛みが走った。一瞬、何が起きたのか分からなかった。反射的に頬を抑えれば、視界には右手を小刻みに震わせているアンジェリカ。おねえちゃんが殴ったのだ。あのおねえちゃんが。
 アーニャにはただ衝撃だった。いつでも日向のようだったアンジェリカが、泣いただけでなく自分を殴った。記憶にある限り、アンジェリカに殴られたのは初めてだった。
「どうして、じゃないわよぉ……」
「おねえちゃん」
「心配掛けさせて、この子はっ……!」
 それだけ絞り出すように言うと、アンジェリカはアーニャの膝上に崩れてまたおいおいと泣き出してしまった。
「まったくだよ。お前、どこに行っていたんだい。なかなか帰ってこないと気を揉んでいたら、急にそこの茂みからふらふら出てくるし。村の者全員でいよいよ山狩りかと思っていたんだよ」
 頭上から完全に呆れ返った母の声がして、その声色、山狩りという単語にアーニャは今更ながら竦んだ。自分はとてつもなく馬鹿で迷惑の掛かることをやったのだと、ようやく悟った。
「――ごめんなさい」
 本当に自分はどうしようもない。無知で向こう見ずな、ただの子供だ。今回、このような騒ぎになってよくよく分かった。
 己の左手首に引っかかっているものを確認してから、アーニャはまだ己の膝にかじり付いているアンジェリカの背中を軽く叩く。アンジェリカが涙に濡れた顔を上げると、
「あの、実はこれを渡したかったの」
 アーニャは左手首から護符を外してみせた。二本の指ほどの幅しかない、銅製の薄いプレートに紐が通してあるだけの簡素な護符。プレートの表面には、よく分からない模様のようなものが刻まれている。それが、それだけがアーニャの求めていたすべてだった。
「何これ? これを渡したくて、こんな時間まで出かけていたの?」
「明日からのお守り……」
「……本当に馬鹿ね」
「――うん」
 アーニャは頷くしかなかった。自分の軽はずみな行動がもたらす結果を想像もせず、自分がアンジェリカに護符を渡したい、その一心だけで動いた。別にアンジェリカに頼まれたわけでもないのに。こういうの何て言うんだっけ、ああ、そうだ、自己満足だ――。
 悲しかったのは私。おねえちゃんに行ってほしくなかったのも私。それを履き違えて、おねえちゃんのために動く自分に酔っていたのだ。
 だが、アンジェリカは苦笑しながらそれを受け取ってくれた。そのことだけが唯一の救いだった。
「あら、これイシュタル様のとこのものじゃない。そうか、なるほど、イシュタル様があんたもお守り下すったんだねえ」
 二人の間を覗き込んできた母が、すべて分かったような顔でしみじみと頷く。神様のご利益だな、と父も笑った。


 結局、冷えと疲労からアーニャは風邪を引いてしまい、翌日の殆どをベッドで過ごすことになってしまった。起き上がろうとしても身体のあちこちが痛いし、頭が意識より先に重力に引かれてしまう。馬車の乗り合い場所へ向かうアンジェリカを見送ることすら出来なかったのである。
 部屋を出る際に額に触れてくれた手の温もり、「早く治しなさいね」と諭すような声、熱に浮かされた中ではそれしか認識出来なかった。それがアンジェリカとの、しばらくの別れになってしまった。本当に情けない。
 馬鹿みたい馬鹿みたい馬鹿みたい、と一昨日の夜と同じようにぼやいてると、本当に馬鹿になるからやめなさい、と母からまたもや呆れられる。
 日が傾いてきた頃合いにようやく楽になってきたので、夕飯時にはみんなと同じ食卓についた。一人いない食卓。いるはずの人がいない食卓。拭いがたい違和感にアーニャは愕然とした。でも、その事実にもきっとすぐ慣れてしまうのだろう。今日からは、これが当たり前になる。
「いなくなっちゃったわねえ」
 母がぽつりと言う。
「元気で頑張ってくれるといいんだがなぁ」
 兄も気落ちした様子で呟いた。父も他の兄姉も同様だった。その日の食卓は、心なしか言葉少なに進んだ。
 そうか、とアーニャは悟る。誰も彼もが感情をそのまま表に出すわけではない。アンジェリカが出ていくことは家族にとって我慢しなければならないことだったから、みんな堪えていたのだ。
 だけど、本当は。
 ――みんな、寂しくて悲しかったんだ……。


 馬車に揺られながら、アンジェリカは小さなプレートを眺めていた。言わずもがな、アーニャから昨日渡されたお守りである。飾り気一つないが、アンジェリカにとっては何よりも可愛くて大切なお守りだ。アーニャは馬鹿なことをしたけれど、あの子なりに旅立つ自分のために心を砕き、一生懸命やってくれたのだろう。それは純粋に嬉しかった。
 これからはもう、あんな無茶はしないだろう。アーニャは決して愚かな子ではない。
「お嬢ちゃん、それどうしたの」
 隣の席に座っていた老婦人が話しかけてきた。別の村を通った際に乗ってきた、貴族ほどではないが身なりのいい婦人である。