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私とおねえちゃんと勇気の護符

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「ただし、夕飯までには戻ってくるのよ。いい?」
「うん! うん!」
 アーニャは首が痛くなるほど、何度も頷いた。
 これでいける。――おねえちゃんに勇気と強さを与えられる。


 その後もアーニャは精力的に働いた。部屋で旅支度をしているらしいアンジェリカが一度母と話しに台所へやってきた折、「どうしたの?」と不思議がるほどに。
 パンと塩スープだけの昼食を手早く済ませ、その席で母へ目配せすると母は無言で小さく頷いた。行ってもよろしい、ということだ。
 アーニャは飛び跳ねたい気持ちを抑え、「ごちそうさま」と極めて冷静に、普段通りに言ってみせた。アンジェリカが、「はやいねー」と呑気に言うのを背中で聞き流す。まったく、人の気も知らないで。
 アーニャは一旦自室に戻って、アンジェリカの戻らぬうちに支度をする。といっても半日の山登りだから、そう構えることはない。水とお菓子、それくらいだ。
 見れば、アンジェリカの服、それに大事にしていた本や小物はトランクに仕舞われていた。一人分の物が忽然と消えてしまった部屋はどこかもの悲しく、まるで知らない部屋のようだった。だけど、これが明日からは当たり前のものになる。
 アーニャはその苦い事実を飲み込んで、家を出た。
 目指すは北東。
 土着の神、イシュタルを祭っている地母神廟へ。


 微かな痛みが手の甲に走る。薄く尖った草にまた肌が切られたようだが、そのいちいちを確認するのは時間の無駄だ。アーニャは気にせず、道なき道を行く。荒れ果てて、どこまでが道なのかも定かでない道。
 山の頂き近くにある地母神廟へは家族で年に一度、参拝に訪れている。その記憶を辿れば地母神廟への道のりは容易いと思われたが、なかなかどうして現実はそう上手くは運ばなかった。記憶自体があやふやなのは勿論のこと、山の上の寒さは予想以上にアーニャの体温を奪ったのだ。
 寒い。アーニャは厚着をしてこなかった自分を呪いつつ、冷えていく身体を温めるために懸命に足を動かした。
 本当にこの道で正しいのだろうか。山の景色はどこも同じように見えて、記憶との照合が覚束無い。不安ばかりが、頭をちらつく。
 そして急な勾配に息は切れ、いつ果てるともしれない木々の重なりにともすれば気力までもが萎えそうだった。参拝の時はいつも両親の後をついていけばよかったから、こんなに不安になることはなかった。もし途中で力尽きたとしても家族の誰かが助けてくれただろうが、今は正真正銘一人である。母にすら行き先は告げていなかったから、自分がこのような山中にいることなど誰も知るはずがない。すなわち、誰も助けてくれない。アーニャはぞっとした。
 自分なんて、こんなものだ。いくら大人ぶったところで、結局一人では参拝すら出来ない。子供なのだ。心細くて怖くて、大人に縋りたくなってしまう、ただの無力な子供。
 苔むした岩に足を取られて、アーニャは転んだ。右の膝小僧の皮がめくれて、見る見るうちに血が滲んでくる。
 だが滲みそうになった涙を、アーニャは目を瞑って必死に押さえ込んだ。泣いてなどいない。
 ただの子供でも、出来ることはある。そもそもここまで来てしまったのだから、後はやるしかない。泣き言なんて言っていられる余裕はないのだ。
 時間はどのくらい経ったのだろう。陽光がろくに差し込まぬ薄暗い森林の中ではそれは読みとれなかったが、夜までにはなんとしてでも下山したかった。アーニャを焦らせるのは、何も母との約束だけではない。夜になれば道は更に不確かになり、来た道を辿るだけのことすら困難になる。
 ふと、頬に冷たいものが触れた。嫌な予感と共にそこを拭ってみると、やはり水滴。
「……嘘」
 アーニャは一人ごちた。
 見上げれば、天空を覆う木々の僅かな切れ間から水滴がいくつもこぼれ始めている。
 雨だ。
 事態は、最悪の方向へ向かいつつあった。
 あっと言う間に本降りになってきた雨は、アーニャの疲れきった身体を容赦なく打ちのめす。寒い。思わず自らの身体をかき抱く。それでもなお上へ向かおうとした瞬間、濡れた草に足を取られてあわや滑りそうになった。
 ――帰りたい。帰ってしまおうか。
 とうとう弱音が脳裏を過ぎった。今なら来た道を辿ることは出来るだろう。暖炉の前で冷えた身体を温め、美味しいスープを飲むことを一度想像してしまうと、覚悟は陽光に晒された淡雪のように溶けていってしまった。いつしか頬を濡らすものは雨だけではなく、その溶けた覚悟――涙も混じっていた。
 足を下方へ向ける。思いの外急な斜面に一瞬臆したが、最後の勇気を振り絞って帰路の一歩を踏み出した。踏み出したつもりだった。
 スープを飲む、暖炉の前へ行く。それらにたどり着く前に、とても大切な、思い出すべきことがあるではないか。家の扉を開いた時、出迎えてくれるのは誰なのか――。
 アーニャにその最も大事なことを思い出させたのは、己の雨に濡れる身体だった。冷えた感覚が、雨の匂いが、ほんの少し昔の記憶を思い起こさせる。
 急な豪雨に濡れて帰った夕方、決まって面倒を見てくれたアンジェリカ。おねえちゃん。凍える自分を着替えさせ、布で包んで温めてくれた……。
 あの頼りないけど優しいおねえちゃんをこれから自分の代わりにお守り下さるよう、強さと勇気を与えて下さるよう、神様に頼み込むのだ。その頼み込むアーニャ自身が正しい勇気を持ち得ず、こんなに弱いことでどうするのだ。それでは胸を張って神様の前には出られないし、アンジェリカを送り出すことも出来ない。
 アーニャは下りようとした自らの足を、咎めるように見つめる。
 この勇気があればまだ上れるではないか。逃げようとしていた己にアーニャは失望し、と同時に間一髪留まった己に安堵した。危うく勇気の使いどころを間違えるところだった。アーニャは反転し、再度遥か上方を見据える。
 ――私は、勇気を、強さをおねえちゃんに渡すんだから。


 木造で古めかしい雰囲気を持つ地母神廟が季節外れの小さな来客を迎えたのは、その日も終わろうかという時分だった。
 彼女は身体のあちこちを打撲と切り傷に苛まれ、更には雨にぐっしょりと濡れ、芯から凍えきっていた。まさに満身創痍と言うしかない体。それでも彼女は誰もいない夜の敷地を恐れず、這うような足取りではあったが廟だけを見つめて向かってきた。今にも倒れてしまいそうでも、瞳の最奥に灯る炎は消えない。なんと勇ましく、意志の強い子か。このような子を見たのは、何年、いや何十年ぶりだろう。山の危険を顧みず、幼い身で単身挑んだのはあまりに無謀だったが。途中で引き返すことこそ、真の勇気であったのだが。
 その手が廟へ小銭を投げ入れ、並べられている護符の一つを半ば奪い取るようにした時――それは違う、と囁きそうになった。
 あなたが求めているものはそれではない。
 しかし、と思い直す。
 この勇敢な子供が懸念している人物の未来を見遥かせば、それは正しい選択のように思えた。過酷で恐ろしい運命からその人物を守るには、なるほどこの護符がふさわしい。となれば、彼女の無意識すら定められた運命のうちか。この選択は尊重せねばなるまい。