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私とおねえちゃんと勇気の護符

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 姉がそんなことを言うのが耳に入った。
 灰なんて持ってきてもらってどうするっていうんだろう。アーニャは腹立たしくなって、食事もそこそこに乱暴に席を立つ。自分に絡みついた家族全員の視線を振り切るように、
「ごちそうさま」
 とだけ素っ気なく言って食器を片付け、わざと足音を立てながらその場を去った。


 そのまま自室に帰って、ベッドの上で毛布をかぶる。アンジェリカと二人で使っているベッドは、一人には広い。この広さも、明後日の夜からは当たり前になる。
 とても重大なことが起きようとしているのに、あの夕飯の雰囲気は何なんだろう。
 ――馬鹿みたい、馬鹿みたい、馬鹿みたい。
 真っ暗な中で目を見開いたまま、ひたすら心中で罵っているうちにアンジェリカが入ってきた気配がしたが、無視した。アンジェリカはベッドに上がってくると、毛布の上からアーニャを撫でた。
「どうしたの? ご飯も殆ど食べないで……お腹痛かった?」
 この通りよ、とアーニャはますます苛立ちが募っていく。私の不機嫌に気付きもしない。相変わらずの、馬鹿で頼りなくて鈍くて、優しいおねえちゃん。
 ――そう、毛布から出なくても分かる。あの温かな色の瞳が、自分を見守っていることが。物心ついた頃から、多分母のそれよりも多く見てきた、あの瞳。
 それを想像すると、理不尽だとは分かりながらもこの苛立ちをアンジェリカにぶつけたくなってしまう。アンジェリカならあの瞳のまま、怒ることなくニコニコと受け入れてくれそうだったから。
 アンジェリカがベッドの端に腰を下ろしたようなので、
「なんでサンドリヨンなんか行くの。もっと近くになかったの」
 毛布に籠城したままアーニャは一つの不満を吐き出すように口にした。唇から出た声の刺々しさに、自分でも驚く。
「だって神父さんが紹介してくれたのがサンドリヨンだったんだもの」
「他のところを探せばよかったじゃない」
「うーん……実はさ、灰降りを見てみたいんだよね」
 また灰だ。アーニャは唇を噛む。
「なんなの、灰降りって」
「サンドリヨンでは新月の夜に火山灰が雪のように降るんだって。それがすごく綺麗らしいんだぁ」
 ――馬鹿みたい。
 アンジェリカの浮かれた声に、アーニャは一層苛立った。何が灰だ。灰なんか、暖炉の中に嫌になるほど積もっているじゃないか。欲しけりゃ、あんなのいくらだってくれてやる。
「きゃあああ!」
 突然、毛布の外側から悲鳴がした。
「蜘蛛! アーニャ、蜘蛛!」
 切羽詰まった様子のアンジェリカに反して、アーニャはのろのろと毛布を剥ぐ。はぁ、とため息一つつく余裕まであった。
 アンジェリカが「あっち!」と半狂乱で指さす方向へ目をやると、確かに蜘蛛がいた。アーニャの手の半分くらいの大きさの蜘蛛が、悠々と天井からぶら下がっている。随分と低く、アーニャにも手の届きそうな位置まで。
「早く、早くどうにかして」
 涙目で震える姉を冷ややかに一瞥してから、アーニャはベッドを下りる。ちょっと背伸びをして素手でそれを掴んだ瞬間、後ろからアンジェリカの小さく呻く声が聞こえた。窓を開けて、縁伝いに蜘蛛を逃がしてやる。蜘蛛は急ぎ足で去っていき、あっと言う間に暗闇に呑まれて見えなくなった。
「ああ、助かったぁ……」
 窓を閉めて振り返れば、大袈裟なほどに安堵しているアンジェリカ。
「ありがとう、アーニャ。やっぱり頼りになるわ」
「おねえちゃんが情けなさ過ぎなんだよ。あんな蜘蛛、一人で捕まえてよ」
 サンドリヨンに私はいないんだから――と言いそうになったのを、すんでのところで堪える。おねえちゃんが不安で泣き出しちゃうかもしれないもの。だのに、たった今平然と蜘蛛を掴んだアーニャの方が、どうしてだか震えていた。
「うん、そうだよね、頑張らなきゃ」
 そう言ったアンジェリカはいつものおっとりとした笑顔で、とても改善は期待できそうになかった。


 ベッドに二人潜り込んで、灯りを消す。
 だがアーニャは眠れずにいた。明日に響くことは分かっているから一生懸命目を瞑るのだが、睡魔を待ちあぐねて結局闇を凝視してしまう。自分の意志とは関係なく、おねえちゃんのいない家というものが朧気なまま脳裏に浮かんでは心が泡立たった。考えまいとしても考えてしまう、明後日のこと。当人のアンジェリカが隣ですうすうと穏やかな寝息を立てているのが、恨めしくすらあった。
 本当に、暢気なおねえちゃん。
 アーニャは呆れ半分でため息をつく。
 思えばそのようにのんびり屋だから、小さい頃は近所の暴れん坊な男の子に目をつけられて何かと意地悪をされていたのだ。服に蛙を入れられたり、持ち物を隠されたり。そのいちいちに立ち向かい、相手方に噛みついていたのはアンジェリカ本人ではなく自分だった。――そう、本当におねえちゃんは私がいないとだめなんだから。
 みんな、明日は変わらぬ一日を過ごすのだろう。おねえちゃんは旅立ちの準備をするけど、お父さんやお兄ちゃんたちは朝から仕事に行くし、お母さんはご飯を作ったり洗濯をしたりする。粛々と過ぎていくに違いない、今日と変わらぬ明日を思うとアーニャはやきもきした。
 明日は学校がないから、一日中家にいることになる。だが普段通りなんて、無為には過ごしたくなかった。それではさっきの夕飯時と同じ、みんなと同じだ。
 おねえちゃんの出発にふさわしいこと。それをずっと考えているうちに、小鳥の鳴き声が聞こえてきた。夜明けが近い。間もなく朝日が射してくることだろう。
 おねえちゃんは弱い。おっちょこちょいで、頼りない。そんなおねえちゃんなのに、明後日から自分とは離れ離れになる。
 蜘蛛を捕まえられる勇気を、家族がいなくても一人で生きていける強さを、おねえちゃんが持てますように。自分の祈りを聞き届け、おねえちゃんを守ってくれる誰かを探した時、アーニャの腹は決まった。アーニャはベッドの中で拳を作る。


 辺りが白々とし始めた頃からアーニャはベッドを飛び出し、毎日の仕事となっていること、母から恐らく命じられるであろうことを積極的に行った。鶏小屋の世話、家の掃除、昨日の汚れ物の洗濯。それもまだ寝ている家族が起きないよう、細心の注意を払って。作業はどれも普段より早く進んだ。アーニャ自身、こんなに自分が短い時間で何もかもをこなせるとは思いもしなかった。
 完全に陽が上った頃に起きてきた母は、「まあまあ、どうしたの」とアーニャの仕事ぶりに目を丸くして感心した。台所には、既に家族の人数分の朝食を並べてある。
「おかあさん。私、午後は行きたいところがあるの」
 汗ばんだ額を拭いもせず、アーニャは一つ一つの言葉をはっきりと丁寧に言った。その願いを叶えるために、朝から奔走していたのだ。ここで負けてはならない。
「今日じゃなきゃだめなの、お願い」
 寝ぼけ眼だった母はアーニャの様子に一変し、真剣な顔つきで瞳の奥を覗き込むように見つめてきた。
 ――どうか聞き入れて、お母さん。
 アーニャはその視線に負けじと、ありったけの思いを込めて母を見つめ返した。
 母はため息一つつくと、
「……分かったわ。あんたがここまでやって、それほど言うなら、よっぽど大事なことなんでしょ」
「お母さん!」