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私とおねえちゃんと勇気の護符

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タライの中で豆を洗う手が不意に止まった。
 ――明日は家のことはいいから、準備をしなさい。
 今、母はおねえちゃん――アンジェリカにそう言わなかったか。
 明日、何があるというのだろう。準備とはどういう意味なのだろう。
 只ならぬ雰囲気にアーニャは顔を上げて、背後にいるアンジェリカと母を振り返る。二人とも随分と深刻そうな顔をして、アンジェリカの手にある一枚の紙をのぞき込んでいた。それは今し方、郵便屋さんから勝手口で受け取った手紙だろうか。差し込む夕陽はいつもと同じ色なのに、狭い台所に満ちる空気は全く異質のものだった。
「ねえ、どうしたの?」
 そのまま何も見なかったことにして豆を洗う気には到底なれず、アーニャが立ち上がると、
「……おねえちゃん、働きにいくのよ」
 母はそれを咎めもせずに、力のない声で言った。
「そう、なんだ」
 別段驚くようなことでもない。この家では、子供が公立の初等学校を出てすぐに働くのは至極当たり前のこと、暗黙の了解となっている。十四才という年齢を考えるなら、むしろアンジェリカは遅すぎるくらい。 
 台所の床は土が剥きだしになっていて、晩秋の冷気が靴越しに上ってくるようだった。それもそのはずで、アーニャの靴は穴が二、三空いている。母のもそうだ。この家でまともな靴を履いている者なんていない。この家は貧しい。祖父から受け継いだコーン畑は、一家全員――両親と兄二人と姉二人、そしてアーニャ、計七人を食べさせるのがやっとで、子供たちを上の学校へ行かせる余裕はとてもなかった。
 だから兄二人は村の男衆と土木作業、姉一人は近くの女工工場で針仕事をして、家に金を入れている。
 一番年の近い姉である、家で唯一遊び相手になってくれるアンジェリカが働きに出ることには寂しい思いもしたが、贅沢は言ってられない。この程度のことは我慢しなければいけない。自分はもう十一才なのだから。それに仕事に行くといっても、兄も姉も夕飯には戻ってくる。つまりは、夜は今まで通り一緒だということ。
 ――そうよ、昼間にちょっといなくなるだけじゃない。
 アーニャは気落ちしそうな自分をそう励ました。
 だが母が次にアンジェリカに告げた言葉は、耳を疑うものだった。
「アンジェリカ、急いで役場に行って旅券をもらっといで。今日中なら明後日のものが発行してもらえるだろ」
「はい、お母さん」
 彼女らしかぬ素早さで台所を出ていってしまったアンジェリカを、アーニャは呆然と見送る。旅券は、村から長距離馬車で出ていく時に必要なものだ。それを発行してもらうことの意味は勿論アーニャにだって分かっていた。だけど直視したくない。認めたくない。
「どういうこと、お母さん。おねえちゃん、出ていくの?」
「そうだよ」
「どうして!」
 アーニャの悲鳴にも似た声に、母は諦観の滲んだ表情を見せた。
「仕方ないだろう、このへんじゃ仕事がないんだから」
 確かにそのことについては、両親が日々愚痴をこぼしていた。いい加減アンジェリカを働かせたいのに働き口がない、と。
「どこ、どこに行くの。何の仕事するの」
「それはみんながいる夕飯の時においおい話すよ。さあ、豆を洗っとくれ」
 逸るアーニャを無視して、母は芋剥きの作業に戻った。
 台所の隅では、火に掛けられた鍋がコトコトと音を立てている。つっかえ棒で開けられた明かり採り窓の向こうに見えるのは、朱色に染まり始めた空。鴉たちが群れなして山へ帰っていく。そのどこか物悲しい鳴き声が、遠く離れたこの台所にいるアーニャの耳にも染み入った。
 いつもとなんら変わらない、秋の夕暮れ。
 おねえちゃん――アンジェリカがいない以外は。一緒に夕飯の準備をするはずのアンジェリカの姿が見えない以外は。
 そしてそれは明後日から、いつものこととなる。当たり前が反転する。アンジェリカはいなくなる。
 アンジェリカは一週間後には夕方の台所から――いや、アーニャの生活全部からいなくなってしまうのだ。朝起きてから夜寝るまでの殆どの時間を一緒にいる、アーニャのおねえちゃんが。それがどうしても信じられない。現実味が沸かない。
 アンジェリカはずっと自分の隣にいるものだと思っていたのだ、何の疑いもなく。空や山や川が毎日毎日、動かしようもなく必ずそこにあるように。
 これから開くであろう穴の大きさがあまりに途方もなくて図りきれず、アーニャはただ呆然とタライの中の豆をかき混ぜ続けた。


 家族全員が揃った夕食の席で、改めて母からアンジェリカの仕事のことが話された。
「神父さんが紹介状を出してくれたっていうあの話か」
「そ。よそのおうちにメイドをやりに行くんだって。ちょっと変わった仕事だけどね、まあいいんじゃないかと思うわ。掃除や洗濯ならアンジェでも出来るでしょ」
 母の説明を聞いて、上の三人が「お前メイドなんか出来るのかよ」「すぐクビになるんじゃないの」と冷やかし混じりに囃し立てる。父も母もそんな子供たちに苦笑するだけで、特に普段と変わった様子はない。とうのアンジェリカもいつもと同じ、気弱そうな笑顔を浮かべている。
 アーニャだけが押し黙ったまま、夕飯をのろのろとまずそうな顔で口元に運んでいた。
「出発は明後日の昼過ぎに決まったから」
 アンジェリカの言葉に、アーニャは知らず身体を強ばらせる。早すぎる。
「町の名前はなんて言うの?」
「サンドリヨンだって」
 聞いたことがあるような、ないような。アーニャは学校の授業で習った世界地図を、必死に頭の中に広げてみる。でもその地図は国と首都だけの、大雑把な地図だった。村の周辺しか載っていなかった。買い出しに行く大人たちの会話の中にも、覚えはない。
「明後日の乗り合い馬車で、まずは都まで行ってね。都から直通の馬車に乗るみたい」
「あらぁ、随分遠いのね」
「片道三日ってところか」
 頭がぐらぐらしてきた。
 アーニャはそこまで長く遠出をしたことがない。せいぜい川向こうまで野草を摘みに、朝から日暮れまで出かけるくらいか。日を跨いだことなんて、あるはずもない。
 そんな遠くまで一人で行かねばならないおねえちゃんを思うと、アーニャは胸が詰まった。――かわいそうだ。おねえちゃんは人一倍、気が弱いのに。
「た、たまには帰ってくるんだよね?」
 アーニャはのろのろと尋ねる。
「さあ……あちらさんが休みをくれないことにはねえ」
「だいじょーぶ、すぐにお暇が出るから」
「もう、みんなひどいよぉ」
 アンジェリカの一言に、場がわっと弾けた。普段と変わりない、夕飯の席。
 どうしてみんなそんなに平然としているのだろう。笑ったり冗談を言ったり出来るのだろう。家族の一人が、おねえちゃんがいなくなるなんて一大事じゃないか。
 もっとこの場にふさわしい振る舞いというものがあるような気がする。だけどそれがどういったものなのか、アーニャには具体的に示すことができなかった。なんせこんな大事、十一年しか生きていないアーニャには初めてのことだったから。
 それでアーニャは居心地の悪さを感じ続けながら、一人黙って食事を続けていた。今日のご飯は味付けが薄いような気がする。
「帰ってくる時は灰持ってきてね、灰。有名なんでしょ」