灰とリコと導きの歌
そうっと小さな声で呼び掛けると、ベッドと窓の間にある僅かな隙間からこっそりと四つん這いで這い出てくるものがあった。慎重にこちらの様子を窺いながら出てくる様はいかにも動物的で、自分以外の者が見たら、黒い長毛に覆われた豹か何かが出てきたと早とちりしたかもしれない。だがそれはよくよく見れば、長過ぎる漆黒の髪に身体の殆どが隠されてしまった、小さな小さな女の子だ。アンジェリカが貸してやった黒の寝間着もその小さな身体には大き過ぎて、すっぽり覆われてしまっている。
「誰も来なかった?」
周囲に聞こえないよう、ごく小さな声で尋ねた。ここは角部屋で、隣は無人だからそう警戒することもないのだが、だからといって普段のように話すのは流石に憚られた。
彼女はこくん、と無言で頷く。アンジェリカはベッドに腰掛けて、真似るように隣にちょこんと座った彼女に「これ、あげる」とポケットからパンを差し出した。彼女はパンとアンジェリカとを代わる代わる、いいの?と尋ねるように見比べてから、ようやくそれを受け取る。野良猫に餌をあげる時のようだ、と胸が痛む。
「美味しい?」
ちゃんとパンを一口大にちぎってから口にして、彼女は頷いた。表情は変わらない。彼女はいつもこうだ。アンジェリカは苦笑して、
「……それで足りる?」と重ねて聞いた。
彼女は口をもごもごさせながらちょっと考えて、やはり同じように頷いた。
いや、足りるはずがない。この子がいくつかは分からないが、子供から少女に差し掛かろうとしている育ち盛りの腹が一日にパン一つ、それと僅かなハムやチーズだけで膨れるわけがない。健気な彼女に胸が痛くなったが、アンジェリカにしてもこのパンを持ってくるだけでやっとなのである。これもいつまで続けられるか。マリエッタが早晩気付くのではないか。かといって、彼女のための食事を調達するに充分な時間もお駄賃も、今のアンジェリカにはなかった。朝から晩まで懸命に働いた上で、得られる給料の中から実家への仕送りを捻出するだけでやっとの日々なのだ。
彼女を『拾って』、今日で三日目。
この調子では彼女は持たない。どうすればいいのだろう。一口一口を大切そうに食べる彼女を見ながら、アンジェリカは悲嘆に暮れた。
「……ん?」
彼女が、パンでもなく自分でもなく別の何かを凝視している。その視線の先を追って、
「あっ、降ってきたのね」
アンジェリカは慌てて窓辺に立った。中途半端に開いていた安物のカーテンを全開にして、「ほら、おいで」と彼女を呼ぶ。
彼女は残りのパンを口に入れると、従順に隣にやってきた。こうして並ぶと、自分より頭一つ分小さいのがありありと分かる。
「綺麗でしょう」
窓ガラスを二枚隔てた向こうでは、粉雪のような、パウダーのような、細かい白の粒子が儀式のような静謐さをもって、無数に降り注いでた。漆黒の夜を埋め尽くしそうな程に。
「この町はね、月に一度、新月の夜に火山灰が降るのよ。みんな、灰降りって呼んでいるわ」
島唯一の町であるサンドリヨンは雄大なアッテラ火山を背にして、なだらかな山裾を埋めるように町並みを広げている。急な勾配はなく、緩やかな石畳の坂道が続く町。何本もの坂道は町の頂上にあたる教会に集う。そんな町のちょうど中腹に位置するのが、アンジェリカの住まうこのフローレンツの家だ。フローレンツの家を境に、町は上流階級と労働者階級に綺麗に分かれている。アンジェリカの部屋の窓からは労働者階級のエリア――いくつものアパートメントや市場を一望することができた。
町に立ち並ぶ石造りのアパートメント、その窓の一つ一つに同じように眺めている顔が見える。それらの窓から仄かに漏れるランプの灯りが、夜の町を温かな色に彩っていた。
空から降る何万、何億もの灰と地上の仄かな星とが混ざり合って奏でる、光の協奏曲。
アンジェリカが灰降りを見るのは今夜で三度目だったが、やはりその美しさ、荘厳さに圧倒されてしまう。天の星々が降ってきたような錯覚すら覚える。
この光景を求めて、新月の夜が近付くと近隣諸国から多くの観光客が足を運んでくるのも納得だった。夜のいつに降るかは分からず、時間もほんの数分と僅かなものであるから、彼らは眠い目を擦って灰の訪れを辛抱強く待つと聞く。
「ま、明日の朝は掃除が大変なんだけどね。玄関口の階段や庭に、灰が積もっちゃうの。でも砂糖みたいにサラサラしてるから、余所の火山灰に比べれば扱いはずっと楽なんだって」
そこまで説明して、アンジェリカは隣の彼女をちらりと横目で盗み見た。その表情にあるのは、歓喜や驚きであるはずだった。
彼女を部屋に招き入れてから三日間、アンジェリカは彼女の感情の揺らめきらしいものを一切見たことがなかった。笑いも、怒りも、悲しみも、彼女には縁のない、どこか遠い世界の存在のようであった。一日に一度だけのパンを食べる時ですら粛々としていて、人形めいた雰囲気を崩さない。だが感情は、この小さな身体の中を狂おしく駆け巡っているに違いないのだ。アンジェリカはそう信じている。ただ、出口を知らないだけで。でなければ何故、パン一つでも満足だと頷くような気遣いが存在するだろうか。
アンジェリカはこの灰降りなら、固く閉ざされた彼女の心の扉も開くに違いないと期待していたのである。そして彼女をもっと知ることができる、仲良くなれる、と。
「……」
結論から言えば、扉は開いた。ほんの少しだけ、躊躇いがちではあったけれど。しかし彼女の横顔に浮かんでいたのは嫌悪だった。アンジェリカは目を見張った。とてつもなく辛いものを無理矢理目の前に突きつけられた表情。少なくとも、アンジェリカが望んでいたような喜びとは程遠い。
彼女は乱暴にカーテンを閉め、脱兎のような勢いでベッドに戻ってシーツを頭から被ってしまった。驚いたアンジェリカがシーツの上から「どうしたの」と呼びかけても、もはや身動ぎ一つしない。声もない。石像のように無言で固まってしまっている。
仕方なく、アンジェリカはそのまま彼女の背中を宥めるように撫で続けた。いやに骨張った、小さな背中だった。
カーテンの向こうで、灰降りはもうすぐ終わるだろう。胸のうちにじわじわと広がる落胆がせめて彼女に知れぬよう、アンジェリカはそっと息を押し殺す。
灰降りの美しさに共感してくれなかったことが残念だったのではない。ようやく見えた彼女の感情が、悲しみや苦しみの類だったことがアンジェリカは寂しいのだ。
どうして灰降りを嫌がったのか、見たくないのか。
アンジェリカには勿論、分からない。
彼女が言葉を用いて説明してくれない限り。
だが現時点では、それはとても望めそうになかった。
アンジェリカは彼女の声を聞いたことがない。ただの、一度もない。彼女は感情を手っとり早く伝えるための手段を放棄している、もしくは持ち合わせていないようだった。つまり、言葉をまるで発さないのである。