灰とリコと導きの歌
灰が入り込まないように、アンジェリカは力をこめて慎重に二重窓を降ろす。歯軋りのような耳障りな音を立てながら、古めかしい窓はのろのろと閉まった。新月の夜、台所の窓は特に気をつけなければならない。灰が食器や果物に積もったら大事だ。
夕飯後の皿洗いやそれに連なる台所の片付けは、主に最年少のアンジェリカの仕事である。夜十時を回った今、台所には他に誰もいない。支度の際の騒がしさが嘘のようにしんと静まり返っている。重厚なオーブン台や美しい銀器が並ぶ食器棚へ素早く目配せして、何の異常もないことを確認し、アンジェリカは一息ついた。朝から夜まで今日はやけに長かった気がするけれど、これでようやく終わりだ。待ちに待った仕事上がりだ。
今日回ったのは二軒である。一軒目では一人暮らしの年老いた奥様のお世話。二軒目ではホールの大掃除の手伝い。二軒目は初めての家だったせいか妙に固くなってしまい、危うく置物を倒しかけたり洗剤を間違えたりとさんざんだったけれど、夜に訪れる素敵なことを思えば自責の念にも耐えられた。夜になれば。夜になったら。そればかりを思って過ごした一日だった。
台所の三つの窓すべての錠を固く閉めてから、アンジェリカは窓の外に広がる夜空を仰ぎ見る。そこに月はなく、いくら目を凝らしても支配するのは寒々しい闇ばかり。今夜ばかりは灯台の灯りもない。まだだ。まだ降ってこない。街の名物は。アンジェリカを朝からそわそわさせていたものは。
早く部屋に戻らないと。
あの子に見せたいものがある。
逸る気持ちを抑えながら、アンジェリカは作業用テーブルの上にあった皿から掛け布を外して、残っていた一つのパンを己のエプロンのポケットに突っ込む。夕飯の残り物で、本来なら今ここで捨ててしまうものだ。そして翌朝には鳥の餌になるか、ゴミ集積の荷馬車に積まれるかの儚い運命。
……だから私が持っていったって、何の問題もない。大丈夫、大丈夫よ。
心をちくりと刺す罪悪感をそう宥めながら台所を出ると、
「アンジェリカ」
「は、はいっ」
背後から唐突に声をかけられて、アンジェリカの身体全体が小さく跳ねた。竪琴を奏でるようなこの美しい声はマリエッタだ。四つ年上の、十八歳のマリエッタ。
「片付けは終わった?」
振り返ると、彼女は普段と変わらぬ穏やかな様子だった。当たり前だ、先程の小さな悪事が既に見破られていることなどあるわけがない。だが、狙っていたかのようなタイミングが今のアンジェリカにはそら恐ろしかった。心臓が早いリズムで鼓動を打ち出す。
「今夜は灰降りだけど、窓はもう閉めてくれた?」
「はい。三つともちょうど今閉めました」
「ありがとう。開いてると明日が面倒なことになってしまうものね。ああ、そうそう。今日のルガール様だけど」
「あっ、はい」
アンジェリカの背筋がしゃんと伸びる。一軒目のお客様、ルガール様のお宅にはマリエッタと伺ったのだった。この仕事を始めてまだ二ヶ月のアンジェリカは、お客様の家には基本的に誰かと二人組で出向くことになっている。ルガール様のところでは特にトラブルはなかったと記憶しているが、何かあったのだろうか。
「あなた、洗濯物にリネンウォーターを含めておくのを忘れたでしょう。道すがら話したと思うけど、あそこの奥様はミントの香りが特にお好きなのよ」
「あっ……」
思わず手で口を覆ってしまう。確かにそれは、事前にマリエッタから聞かされていた注意事項だった。
「些細なことだけど、しっかりね。そういう小さな失敗の積み重ねが、お客様を遠ざけてしまうものだから」
「はい」
一軒目ではきちんとやれたと思っていただけに、気落ちしてしまう。今日もまた、だめな自分。マリエッタの口調が決して辛辣なものでなく、優しさを失っていないことがまた堪える。
「ハインリヒ様、今日も来なかったわね」
暗くなったアンジェリカを見かねてか、マリエッタが話題を変えた。その名前が、アンジェリカを更に落ち込ませるとは露知らず。
ハインリヒとは、この館、そしてマリエッタやアンジェリカの仕事上の主人でもあるマルセル様の孫である。アンジェリカが彼と顔を合わせたのは一度きり、ちょうどこの家にやってきた二ヶ月前のことだが、瞳の冷たさ、こちらに対する素っ気なさは嫌なものだった。
「連絡の電話もないんですか?」
出来れば余り会いたくない人物であったが、アンジェリカは一応話を合わせる。マリエッタは心配そうに小首を傾げた。
「そうなのよ。予定の日からもう二日。多分、嵐の夜に何かあったんでしょうね」
「……きっと大丈夫ですよ。明日こそいらっしゃいます。確か、イチジクがお好きなんですよね。たくさん買って、お待ちしていましょう」
「そうね」マリエッタは微笑む。「そうしましょう。いいこね、アンジェリカ」
アンジェリカの頬を指で撫でた。そばかすがいくつも浮かぶそこに触れられるのは少し抵抗がある。だが僅かに身じろいだアンジェリカには気付いた風もなく、指はそのままお下げの一つに触れた。アンジェリカは長い金髪を、パサツきを誤魔化すためにいつも二つの三つ編みにまとめているのだった。
「三つ編み、今日は上手に結べたのね」
「は……私、いつもそんなに下手ですか」
「そういうわけではないけど」
マリエッタは苦笑した。
「いつもと少し違うかな……って思っただけよ。おやすみ」
微笑みを一つ残して、マリエッタは横を通り過ぎていく。「おやすみなさい」とアンジェリカはその背中に挨拶し――彼女が廊下を曲がってから、はあ、と胃の中に溜まっていた緊張を吐き出すように大きなため息をついた。
するどいお人だ。
仕事の時もそうだけど、よく周りを見ている。
確かに、今日の三つ編みはいつもとは違うのだった。
ともかく、こうしてはいられない。
廊下の窓の向こう、四角く切り取られた空ではまだ変化は起きていないが、そろそろのはずだ。
アンジェリカは踵を返して、廊下をやや急ぎ足で歩いた。心躍る気持ちを誰にも悟られてはいけないと思うのに、足が勝手に動いてしまう。早く早く、と。
いつもよりずっと短い時間で台所のある一階から三階までの階段を上って、三階の角にある自室の前に立つ。見慣れたはずの木のドアが、今日は違って見える。今日はその向こうに素敵なことが待っている。
息を整え、少しだけ心の準備をしてから、アンジェリカはそっとドアを開けた。中にいる待ち人を、驚かせないように。
室内には、一見したところ誰もいない。何の変哲もない、いつもの自分の部屋だ。簡素な机に、鏡台に、ベッド。雇い主から与えられた必要最低限の家具たちが行儀よく並ぶのみ。それは想定済みだ。ドアを後ろ手で閉めてから、
「私。アンジェリカよ。出ておいで」
夕飯後の皿洗いやそれに連なる台所の片付けは、主に最年少のアンジェリカの仕事である。夜十時を回った今、台所には他に誰もいない。支度の際の騒がしさが嘘のようにしんと静まり返っている。重厚なオーブン台や美しい銀器が並ぶ食器棚へ素早く目配せして、何の異常もないことを確認し、アンジェリカは一息ついた。朝から夜まで今日はやけに長かった気がするけれど、これでようやく終わりだ。待ちに待った仕事上がりだ。
今日回ったのは二軒である。一軒目では一人暮らしの年老いた奥様のお世話。二軒目ではホールの大掃除の手伝い。二軒目は初めての家だったせいか妙に固くなってしまい、危うく置物を倒しかけたり洗剤を間違えたりとさんざんだったけれど、夜に訪れる素敵なことを思えば自責の念にも耐えられた。夜になれば。夜になったら。そればかりを思って過ごした一日だった。
台所の三つの窓すべての錠を固く閉めてから、アンジェリカは窓の外に広がる夜空を仰ぎ見る。そこに月はなく、いくら目を凝らしても支配するのは寒々しい闇ばかり。今夜ばかりは灯台の灯りもない。まだだ。まだ降ってこない。街の名物は。アンジェリカを朝からそわそわさせていたものは。
早く部屋に戻らないと。
あの子に見せたいものがある。
逸る気持ちを抑えながら、アンジェリカは作業用テーブルの上にあった皿から掛け布を外して、残っていた一つのパンを己のエプロンのポケットに突っ込む。夕飯の残り物で、本来なら今ここで捨ててしまうものだ。そして翌朝には鳥の餌になるか、ゴミ集積の荷馬車に積まれるかの儚い運命。
……だから私が持っていったって、何の問題もない。大丈夫、大丈夫よ。
心をちくりと刺す罪悪感をそう宥めながら台所を出ると、
「アンジェリカ」
「は、はいっ」
背後から唐突に声をかけられて、アンジェリカの身体全体が小さく跳ねた。竪琴を奏でるようなこの美しい声はマリエッタだ。四つ年上の、十八歳のマリエッタ。
「片付けは終わった?」
振り返ると、彼女は普段と変わらぬ穏やかな様子だった。当たり前だ、先程の小さな悪事が既に見破られていることなどあるわけがない。だが、狙っていたかのようなタイミングが今のアンジェリカにはそら恐ろしかった。心臓が早いリズムで鼓動を打ち出す。
「今夜は灰降りだけど、窓はもう閉めてくれた?」
「はい。三つともちょうど今閉めました」
「ありがとう。開いてると明日が面倒なことになってしまうものね。ああ、そうそう。今日のルガール様だけど」
「あっ、はい」
アンジェリカの背筋がしゃんと伸びる。一軒目のお客様、ルガール様のお宅にはマリエッタと伺ったのだった。この仕事を始めてまだ二ヶ月のアンジェリカは、お客様の家には基本的に誰かと二人組で出向くことになっている。ルガール様のところでは特にトラブルはなかったと記憶しているが、何かあったのだろうか。
「あなた、洗濯物にリネンウォーターを含めておくのを忘れたでしょう。道すがら話したと思うけど、あそこの奥様はミントの香りが特にお好きなのよ」
「あっ……」
思わず手で口を覆ってしまう。確かにそれは、事前にマリエッタから聞かされていた注意事項だった。
「些細なことだけど、しっかりね。そういう小さな失敗の積み重ねが、お客様を遠ざけてしまうものだから」
「はい」
一軒目ではきちんとやれたと思っていただけに、気落ちしてしまう。今日もまた、だめな自分。マリエッタの口調が決して辛辣なものでなく、優しさを失っていないことがまた堪える。
「ハインリヒ様、今日も来なかったわね」
暗くなったアンジェリカを見かねてか、マリエッタが話題を変えた。その名前が、アンジェリカを更に落ち込ませるとは露知らず。
ハインリヒとは、この館、そしてマリエッタやアンジェリカの仕事上の主人でもあるマルセル様の孫である。アンジェリカが彼と顔を合わせたのは一度きり、ちょうどこの家にやってきた二ヶ月前のことだが、瞳の冷たさ、こちらに対する素っ気なさは嫌なものだった。
「連絡の電話もないんですか?」
出来れば余り会いたくない人物であったが、アンジェリカは一応話を合わせる。マリエッタは心配そうに小首を傾げた。
「そうなのよ。予定の日からもう二日。多分、嵐の夜に何かあったんでしょうね」
「……きっと大丈夫ですよ。明日こそいらっしゃいます。確か、イチジクがお好きなんですよね。たくさん買って、お待ちしていましょう」
「そうね」マリエッタは微笑む。「そうしましょう。いいこね、アンジェリカ」
アンジェリカの頬を指で撫でた。そばかすがいくつも浮かぶそこに触れられるのは少し抵抗がある。だが僅かに身じろいだアンジェリカには気付いた風もなく、指はそのままお下げの一つに触れた。アンジェリカは長い金髪を、パサツきを誤魔化すためにいつも二つの三つ編みにまとめているのだった。
「三つ編み、今日は上手に結べたのね」
「は……私、いつもそんなに下手ですか」
「そういうわけではないけど」
マリエッタは苦笑した。
「いつもと少し違うかな……って思っただけよ。おやすみ」
微笑みを一つ残して、マリエッタは横を通り過ぎていく。「おやすみなさい」とアンジェリカはその背中に挨拶し――彼女が廊下を曲がってから、はあ、と胃の中に溜まっていた緊張を吐き出すように大きなため息をついた。
するどいお人だ。
仕事の時もそうだけど、よく周りを見ている。
確かに、今日の三つ編みはいつもとは違うのだった。
ともかく、こうしてはいられない。
廊下の窓の向こう、四角く切り取られた空ではまだ変化は起きていないが、そろそろのはずだ。
アンジェリカは踵を返して、廊下をやや急ぎ足で歩いた。心躍る気持ちを誰にも悟られてはいけないと思うのに、足が勝手に動いてしまう。早く早く、と。
いつもよりずっと短い時間で台所のある一階から三階までの階段を上って、三階の角にある自室の前に立つ。見慣れたはずの木のドアが、今日は違って見える。今日はその向こうに素敵なことが待っている。
息を整え、少しだけ心の準備をしてから、アンジェリカはそっとドアを開けた。中にいる待ち人を、驚かせないように。
室内には、一見したところ誰もいない。何の変哲もない、いつもの自分の部屋だ。簡素な机に、鏡台に、ベッド。雇い主から与えられた必要最低限の家具たちが行儀よく並ぶのみ。それは想定済みだ。ドアを後ろ手で閉めてから、
「私。アンジェリカよ。出ておいで」