何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
「明姫、かつて私は、そなたのお祖母さまに、そなたを大切に守り抜くと誓った。今日はここで、私の祖母に改めて誓うよ。そなただけを愛し守り、側から離さないと」
陵墓を取り巻くように桜の樹が何本か植わっている。都より春の訪れが遅いこの山も今は桜がほぼ満開になっていた。
八重桜ありしだれ桜ありで、それぞれの桜の風情が愉しめる。八重桜は色が薄く、花片が幾重にも重なり見事だ。しだれ桜は紅が濃く、その流れ落ちるような枝振りも、女人の刷く紅のように艶(あで)やかな花の色もすべてが艶っぽい。
気まぐれな春の風が通り抜ける度に、桜の花びらがはらはらと零れ落ちる。春の青空を背景に咲き誇る満開の桜は夢の中の光景のように美しい。
「昔話になるが、聞いてくれ」
明姫が頷くと、ユンは彼女の身体を気遣ってか、墓の前に手巾をひろげ明姫を座らせた。
「山を吹き渡る風はまだ冷たい。寒くはないか?」
訊ねてくる彼に、微笑んで首を振る。それを見て安心したかのようにユンは話し始めた。
「私の祖母が女官だったという話は知っているな?」
「はい、存じております」
明姫が頷くと、ユンは素直さを褒めるように手を伸ばし、明姫の髪を撫でた。
女官から側室となり、ついには後宮の頂点である王妃の座を射止めた稀有な女性、仁誠王后。その名は今も伝説のように女官たちの間で語り継がれている。若い女官であれば、誰もが国王の眼に止まり、仁誠王后のように玉の輿に乗りたいと夢見るのは無理もない。
美にして賢と謳われたように、賢夫人として影から王を支え続け、二人の王子と四人の王女に恵まれた。先代の王がその息子であり、ユンは仁誠王后の孫に当たる。
「お祖母さまは桜をこよなく愛された」
ユンはまるで祖母その人を見るように、懐かしげな視線で周囲をゆっくりと見回す。風もないのに、薄紅色の花びらがはらはらと散り落ちていた。
「あ」
明姫は声を上げた。
ユンが微笑んで明姫を見つめる。
「何故、ここに桜がたくさん植わっているか、その理由が判ったか?」
「はい、仁誠王后さまがお好きだったからですね」
「そう」
ユンは満足げに頷き、また眼前の桜に視線を向けた。紅色のしだれ桜が眼にも眩しい。
「この桜は朝鮮の名所といわれるところからわざわざ苗木を取り寄せ、植えさせたんだ。お祖父さまがお祖母さまのためにとね」
仁誠王后は誰もが羨む生涯を送った人である。良人である国王に一身に愛され、王は王妃の他に側室を一人として持たなかった。王が世子に位を譲ってからは、国母として皆から尊崇を受けた。六歳年下の王よりも先立つこと数年、この貞淑で徳の高い王后の死に際し、国中の民が慟哭したといわれる。
中でも良人の王の悲嘆は深く、このまま王までもが王妃の後を追うのではないかと周囲は危ぶんだほどだった。それほどまでに仲睦まじい夫婦だったのである。
そんな傷心の王が亡き妻のためにせめてもの供養にと仁誠王后の愛した桜の花で王妃の眠る墓所の傍らを飾りたいと願ったのだ。
「大変徳の高いお方であったと聞いています」
歴代の王妃の中でもその徳は抜きん出ており、?王妃の中の王妃?とその徳を讃えられたという。現国王の生母である大妃など大きな声では言えないが、足許にも寄れないだろう。上級両班の姫として甘やかされて育ったわけでもなく、下級役人の娘として生まれ育ち、他人を思いやるということを知るひとであった。
「残念なことに、私が四つのときにお亡くなりになってしまった。だから、正直、お祖母さまの記憶は殆どない。でも、たった一つだけ憶えていることがある」
ユンは微笑み、愛おしそうにしだれ桜を見上げた。
「私が三つくらいだったのだと思う。庭園にある桜の下でお祖母さまに遊んで頂いた。その日も今日のように桜の花びらが一面雪のように散り敷いていた。私はせっせと花びらを拾い集め、お祖母さまがそれを糸に通して首飾りを作って下さった。私はそれが無性に嬉しくて、首にかけてはしゃぎ回り、お祖母さまは愉しそうに、そんな私を眺めておいでだったよ」
ユンはひっそりと笑みを零す。明姫はハッとして彼を見た。愉しい祖母との想い出を語るには、あまりにも昏い眼が気になった。
「私は嬉しさのあまり、母上の許に飛んでいき、お祖母さまが作って下さった首飾りを得意げに見せた。だが、母上は言った」
―そのような薄汚いもの、すぐに棄てておしまいなさい。何と嘆かわしい。この国の王となるべき世子がおなごのように首飾りを身に飾り、歓び浮かれているとは。
流石に口にこそ出さなかったが、母がその時、誰を非難していたかは幼いユンにも漠然とは理解できた。
―母上さまは、お祖母さまがお嫌いなのだ。
幼い彼は、柳眉を逆立てる母を見ながら、はっきりと感じた。
仁誠王后と王妃(今の大妃)は最初から折り合いが思わしくなかった。王妃は嫁でありながら、姑にして後宮の長老である仁誠王后を軽んじていた節があった。仁誠王后が下級両班の出にすぎず、元は女官であったことに拘っていたのだ。
一方、王妃は名門ペク氏の息女として生まれ、生まれたときから将来は王妃になるべく育てられた女性だ。確かに出自に関しては天と地ほどの差があった。
だが、仁誠王后の徳は高く、後宮の女官たちはむろん国中の民が慈悲深く思慮深い王后の人柄を慕った。王妃には、それが余計に面白くなかったようだ。この姑と嫁は表立って対立することはなかったものの、不和は王后が崩御するまで続いた。
王妃に命じられた尚宮はユンの大切な首飾りを取り上げた。ユンが取られまいと必死に押さえたため、糸が切れて花びらは、ばらばらに散ってしまった。
「私は泣いたよ。泣きながら、無残にちぎれた首飾りを庭に埋めた。お祖母さまと二人で首飾りを作った桜の樹の下に泣きながら首飾りを葬ったんだ。子ども心に、せめて花の咲いていた場所に埋めてやりたいと思ったのだろうな」
ユンが小さな息を吐いた。
「お祖母さまと母上は最後まで相容れなかった。私にとっては、お二人とも大切な人だ。どちらがどうとは言えない立場だが、できることなら、仲良くして欲しかったよ」
当然の気持ちだと明姫は思う。大好きな祖母と大切な母親が疎遠なのでは幼いユンも辛かったに違いない。泣きながら庭で桜の首飾りを埋めている幼い彼の姿が自然に浮かんだ。
「殿下、久しぶりにいかがですか?」
明姫がわざと明るい声音で言う。
「ん? 何だ」
明姫は笑って、横座りになった自分の膝を叩いた。
「こちらへどうぞ」
刹那、ユンの顔がやっとご褒美を貰える幼子のように輝いた。
「そうだな、そなたの膝枕は実に久しぶりだ」
ユンは早速、ごろりと横になり、明姫の膝に頭を乗せた。
「うーん、気持ちが良いぞ。やっぱり、この場所は最高だ」
そこでユンが急に大真面目に言った。
「明姫、約束しろ。子が生まれても、この場所は私のだからな」
「ええっ?」
予期せぬ話の展開に、明姫が眼を瞠る。
「そなたの膝枕ができる権利を持つのは、この私だけだ。たとえ我が子といえども、ここを奪われるのは我慢ならない」
あまりにも子どもっぽい言い様に、明姫は思わず吹き出してしまった。
「何がおかしい。私は真面目に話しているのだぞ」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ