何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
「だったら、私もあなたを嫌いにはなれないわ。好きな男に抱かれるのを厭う女はいないもの。でもね、あのときは本当に怖かったの。怖くて、不安だった。できれば、あんなことはもうして欲しくない」
「判った。約束する」
ユンが差し出した小指に明姫も指を絡めた。
「身籠もったと聞いたが、本当なのか」
「ええ、本当よ」
明姫の頬が咲き初めたばかりの紅梅のように染まった。
「身体の方は大事ないか? 思い返せば、あの夜、そなたはもう懐妊していたのだな。妊婦相手にあのような酷い抱き方をして、よく子が流れなかったものだ。今から思うと、我ながらゾッとする」
「きっと生命力の強い子なのよ」
「洪女官の書状では、悪阻も烈しく寝込んでいると聞いたのだが」
「少しずつ治まってきているわ。慈慶和尚さまが薬を処方して下さったから」
慈慶和尚は薬草の知識にも通じており、医術にも造詣が深い。明姫を診て懐妊だと断言したのも慈慶和尚だったし、その後、悪阻が治まる薬と体力をつける薬を出してくれたのも彼である。
「そうか。和尚の診立てなら間違いはないな」
言葉が終わらない中に、明姫は強く抱きしめられ、そっと額に口づけを落とされた。
彼女はコツンと頭をまたユンの胸にぶつけた。
「そのような仕種をするとは、まだ子どもなのだな。子どもが子どもを生むのか」
突如として明姫が弾かれたように顔を上げた。
「何ですって? 誰が子どもなのよ?」
降ろしてと、明姫が暴れ始めたので、ユンは咽の奥で笑いながら彼女をそっと地面に降ろした。大切な宝物を扱うような慎重な手つきに、思わず胸が熱くなる。
「さっきは何をしようとしていたのだ?」 改めて問われ、明姫は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ご覧になっていたら、お判りでしょう」
「おい、何だか言葉遣いが全然違うぞ」
明姫は艶やかに微笑んだ。
「少しだけ、ほんの少し昔に戻ってみたかったのです」
私が女官で、あなたが集賢殿の学者、ただの若者ユンであったあの頃に。
明姫は続きは言葉に出さず、飲み込んだ。
しかし、彼なら明姫の言葉に出さない想いをちゃんと判ってくれたはず。明姫とユンのまなざしが暗闇の中、交わり合う。夜空の色と同じ彼の深い瞳の中に、明姫は自分の想いが確かに彼に伝わったことを悟った。
出逢って四年、自分たちはいつしか、言葉を交わさずとも互いの気持ちを伝え合い、理解し合えるようになっていたのだ。
「灯籠を取ろうとしていました」
「和魂祭はもう終わったのだろう?」
「今日は私だけのお祭りです」
明姫が言うと、ユンは回廊まで行って手近な灯籠を一つ取った。ユンからそれを渡され、明姫は硯と筆を取り出し、灯籠の正面に願い事を記す。
「本当はこう書こうと思っていたのですけれど」
と、背伸びして上背のあるユンの耳に囁く。
―あなたに逢いたい。
刹那、ユンの端正な顔が泣きそうに歪んだように見えたのは気のせいだろうか。
「でも、願い事がもう叶ったので、今度は新しいお願いを書きました」
明姫は書いたばかりの墨の跡も鮮やかな灯籠を見せた。
―あなたとずっと一緒にいたい。
灯籠には流れるような字でそう書かれていた。
「私の気持ちも殿下と同じです。半月前の和魂祭の夜、殿下は私とずっと一緒にいたいと書いて下さいました。あの時、私は泣きたいほど嬉しかった。だから、今度は私も同じ気持ちで灯籠に願い事を託しました」
二人は並んで池まで歩き、明姫の代わりにユンが灯籠を浮かべた。
明姫はいつまでも水面を漂う灯籠を眺めていた。ユンが待ちくたびれて痺れを切らし、先に向こうへ行ってしまっても、まだ水辺に佇んで、たった一つだけ水面を漂う灯籠を見つめていた。
明姫が踵を返して戻ってきた時、ユンはずっと回廊の下に佇み彼女を待っていた。
回廊には、灯籠が軒先に点々と吊されている。ユンはやわらかい笑みを口に一刷けしていた。祭りの夜は薄桃色の眼にも艶やかな布地を張った特別な灯籠を使うが、普段は白っぽい普通の布地を張ったものだ。
祭の夜とは違って地味な灯籠だが、それでも漆黒の闇をささやかに照らしている。数歩あるいて後ろを振り返ると、明姫の灯籠はまだ蝋燭の明かりを点したまま、水面をゆらゆらと漂っていた。
その他には何も明かりはない真っ暗な池の面を灯籠が懸命に照らしている。明姫にはそのように思えた。
自分もこんな風になりたい。その時、明姫は心から思った。ささやかでも良いから、明かりとなり愛する男の足許を照らしたい。
―明姫、良き名前だ。まるで都の空一杯にひろがる夜明け前の空のようだな。
いつだったか、知り合ったばかりの頃、ユンが明姫の名前を褒めてくれたことがある。あのときのことを明姫はずっと忘れていない。
これからは灯りになろう。最愛のユンのために彼の支えとなり、彼の褒めてくれた名前のように、彼のゆく手を照らすことのできる星になるのだ。
星を散りばめた夜空は、さながら高貴な女人の胸許を飾る、光り輝く玉を連ねた首飾りのようだ。煌めく星たちを見上げながら、明姫は愛する男の傍にいる幸せを噛みしめた。
翌日、ユンは明姫を伴い少し遠出をした。慈慶和尚の薬は愕くべき効果を発揮する。明姫はもうすっかり回復し、ユンが携えてきたた彼女の好物の揚げパンを立て続けに三個も平らげてユンを呆れさせた。
それでも、身重の明姫を馬に乗せて一刻も走ったことについて、彼なりに心配していたらしい。
「大丈夫か? 腹が痛くないか?」
それはもう過保護気味なくらいに心配性になっている。
「大丈夫です。妊娠は病気ではありませんから、少しくらいは身体を動かした方が良いと慈慶和尚さまもおっしゃっていたではありませんか」
ユンは慈慶和尚とも久々に対面し、明姫を長らく預かって貰った礼を丁重に述べた。その際、明姫の体調について訊ねると、和尚は呵々と笑ったものだった。
―殿下と初めてお逢いしましたのは、ほれ、殿下がこのようにお小さいときでございました。あの腕白坊主がもうお父君になられるとは年月の流れは速いものですのう。儂も歳を取るはずです。
ユンの幼少時をよく知るという和尚は国王に対しての物言いも遠慮会釈がなかった。ユンもまたそれに対して機嫌を悪くする風もなく、和尚に心からの敬意と親愛の情を示しているように見える。
「どこに行くのですか?」
明姫が何度目かに訊ねた時、二人を乗せた馬が止まった。ユンは先にひらりと着地し、馬上の明姫を抱きかかえて降ろした。
「明姫を一度はここに連れてきたかったんだ」
ユンの視線の先を辿ると、少し前方にこんもりとした墳墓があった。その規模といい、明らかに王族の墓所と判る造りである。
「これは?」
物問いたげな視線で問うのに、彼は微笑んだ。
「仁誠(インソン)王妃、私のお祖母さまの墓だよ」
「殿下のお祖母さま―」
「明姫、こちらへ」
手招きされ、明姫はユンの側に行った。ユンが拝礼する側で、明姫も女性式の拝礼を行う。
「お祖母さま、今日は私の妻を連れてきました。私が生涯にただ一人の女と決めた者です」
ユンはあたかも眼前に生きている祖母がいるかのように話しかけた。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ