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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 ユンはますますムキになっている。明姫は微笑んだ。
「もちろんですよ、殿下。ここは殿下のためだけにちゃんと取っておきますから、ご安心下さいませ」
「―なら、良い」
 ユンは流石に照れくさかったのか、憮然と言うと眼を瞑った。
 しばらく静かな時間が流れた。時折、小鳥の囀りや羽音が聞こえ、風に花びらが舞う。
 二人だけのこの刻が永遠に続いてくれたならと明姫は本気で願わずにはいられない。
 その至福の時間は突然、終わることになった。ユンがガバと身を跳ね起こしたからだ。
「どうなさいました?」
 明姫が訊ねるのに、ユンは蒼白な顔でまくし立てた。
「大丈夫なのか!」
「え?」
 明姫は何のことか判らず、首を傾げる。
「腹の子だ。膝枕などして、負担がかかったかもしれない。流産の心配はないのだろうか」
 冗談かと思ったが、ユンの真剣すぎる顔はどう見ても本物だ。
 明姫は込み上げてくる笑いを堪えるのに精一杯だ。
「大丈夫ですよ、これしきのことで赤児は流れません。それに、殿下と私の子ですもの、きっと殺しても死なないほど丈夫に違いありません」
「何だ、その殺しても死なないというのは。失礼なヤツだな、―というより、腹の子に何かあってはいけない。今後は不吉な言葉は慎むように」
「判りました」
 明姫は笑いで声が震えないように真面目な顔で応えた。次の瞬間、明姫は我が身が聞いた言葉を信じられなかった。
「帰ってこい、明姫」
「殿下?」
「もう、そなたが観玉寺にいる必要はない。国王のただ一人の子を産む女として、堂々と後宮に戻ってくれば良い」
「ですが」
 何か言いかけた明姫の唇にユンの指が押し当てられた。
「何も申すでない。これは私が考えに考えて決めたことなのだ。たとえ愛するそなたとて、覆しはできない」
 明姫は桜色の唇を震わせた。涙が滲んでくる。
「殿下、それではまた殿下のお立場が悪くなるでしょう。明姫は私のせいで殿下を困らせたくはないのです」
 本来なら、都から遠く離れた山寺にいる明姫が懐妊するはずがなく、ましてや腹の子が王の胤であるというのは不自然だ。明姫の懐妊が公になれば、王が自ら宮殿を追放した廃妃の許にひそかに通っていたことが露見してしまう。罪人である廃妃への未練を棄てきれず、愛欲に負けた愚かな王と誹る者もいるだろう。
 ユンは明姫の想いをとうに見抜いていたようだ。晴れやかに笑うと、明姫の白い手を自らの手で包み込んだ。
「正直言って、厳しい闘いになるだろう。だが、私はもう屈したりはしない。そなたのお祖母さま、私の祖母、二人のお祖母さまに誓った約束を違えたりはせぬ。ゆえに、そなたもここで約束してくれ。私だけを信じて、ついてきてくれると。けして私の側を自分から離れたりはしないと。もう、そなたを失うのはご免だ」
 明姫は強い力で引き寄せられた。静かな空間の中で、二人の視線が切なく交わる。
 一陣の強い風が吹き抜け、桜の花びらが一斉に舞い上がった。花をたっぷりとつけた枝が揺れ、ざわめく。ユンに抱きしめられた明姫の唇は彼の熱い唇で塞がれた。
 飢えた獣のように狂おしげに唇を奪い合う二人の上に、無数の花びらの雪が降り注ぐ。肩に髪に、あるものは薄紅のあるものは紅色の雪は二人の忘れがたいひとときを惜しみなく彩る。
 啄むような口づけから次第に深くなってゆく。長い口づけを解いた後、ユンが明姫の耳許で囁いた。
「二度と離さない」
 その後もユンは明姫を腕に抱いたまま、桜を静かに見上げていた。既に嵐を思わせる突風は止んだのに、花びらはまだ思い出したように、はらはらと散っていた。


 その十日後、漢陽から王の使者が遣わされた。使者は王命を厳かに読み上げ、盛装した明姫は端座し謹んで、王の御意を承った。
「廃妃金氏の罪一等を免じ、復位させるものとする。従二品淑儀(スゥギ)の位を賜り、後宮に戻ることを許す」
 使者の口上を頭を垂れて聞く明姫の頬はしとどに濡れていた。側に控えていたヒャンダンは声を上げて泣いていた。
 それから数日を経たその日、明姫を迎えに立派な女輿が寄越された。輿を守っているのは王の親衛隊から選ばれた精鋭数名と内官数名である。もちろん、その中には王の信頼も厚い黄維俊の顔も見えた。
 明姫が山門から石段を下りて姿を現すと、その場からどよめきが洩れた。今、石段の下にはふもとの村人が居並んでいる。明姫は身分を感じさせず誰にでも優しく接した。彼らは廃妃の門出をひとめ見送ろうと集まってきたのである。
「流石はこの国一の男を射落としただけはある。本当に天女さまのように綺麗ぇだ」
 ヒャンダンに手伝って貰って着付けた華やかなチマチョゴリを纏い、明姫の美しさは咲き誇る桜花も色褪せんばかりに際立っていた。
 村人は一生涯に一度と見ることのない国王の愛妃の晴れ姿を間近に見て、興奮気味である。
「淑媛さま、綺麗」
 見送りの中には、あの小さなソリもいた。和魂祭の夜、明姫やユンと一緒に灯籠を流した女の子だ。あれからユンのくれたお金を元に母親は商売を始めた。町で蒸し饅頭の露店を出したのだ。
 今はまだ細々としたものだが、売れ行きは悪くはない。そのお陰で、母親は身体をひさぐこともなくなり、ソリは幼心にも淑媛さまのお陰だと信じていた。
 ソリにとって、今日の美しく優しい明姫は観音さまのように見える。今までも美しかったけれど、こうして煌びやかな衣装を着た淑媛さまは天女さまのように神々しくて美しい。
 母親に手を引かれたソリはうっとりと明姫を眺め、ソリからすべての事情を聞いている母親はまるで仏を拝むように明姫に向かって両手をすり合わせていた。
 都から来たのは男たちだけではなく、女官も何人かいる。そして、輿のすぐ脇に守るように控えるのはむろん明姫と共に都に帰還するヒャンダンであった。
 何と、ヒャンダンの足許には一匹の犬が畏まっている。そう、小花も一行と一緒に都に行くのだ。当初、小花はもとより観玉寺に置いていくつもりだった。しかし、当の犬の方が明姫にすり寄って離れず、無理に引き離そうとすると、聞くのも堪えられないような哀れっぽい声で鳴く。そのため、やむなく同行することになったという経緯があった。  
 仁誠王后の御陵に詣でた後、ユンは休む間もなく都に帰っていった。明姫の懐妊と復位、更には帰還を廷臣一同に公表し、その準備を滞りなく整えるためには、時間も手間も必要だったからだ。
―まさか、この犬まで連れて帰るとは言わないだろう?
 ユンは何気なく言ったようだが、明姫は平然と言った。
―小僧さんや寺男のご家族が面倒を見てくれるという話にはなっていますが、もし、寂しがるようなら連れてゆこうと考えています。
―嘘だよな?
 半信半疑で呟くユンに、明姫は艶然と微笑みかける。
―嘘ではありません、本気の本気です。
―この犬は雌であろう、後宮で盛りがついて仔でも生んでは困るのでは?
―いいえ、殿下。この犬は雄ですから、そのご心配は要りません。
 ユンは絶句した。
―何ゆえ、男の癖に女のような紛らわしい名前をつけたんだ。私はたとえ犬といえども、明姫の膝に別の男が乗っかるのは許しがたい。