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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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「あなたが望まなくても、必然的にそうなるのだから、仕方ないでしょう。運命とは、そういうものよ。人が望みもしない場所にその人を連れてゆくの。良い意味でも、その逆の意味でもね。だから、これだけは憶えておいて。あなたが殿下と出逢った瞬間から、こうなる運命は決められていたのよ。運命に、流れに逆らわないで。そして、流れにうまく乗って幸運を掴んでね。ううん、幸運じゃなくて、好きな男の手よ。大好きな男の手はけして放しちゃ駄目。あなたが殿下を心から慕うのなら、今度は絶対に自分の心に嘘はつかないで」
 常識や理想論よりも真実を見つめて、ただ殿下のお側にいることだけを考えるのよ、良いわね?
 最後に囁くように言ってから、ヒャンダンは平伏した。
「ご無礼の数々、どうかお許し下さいませ」
 ヒャンダンの心からの言葉は、明姫の心に滲みた。それは側仕えの女官としてというよりは、もちろん親友としての忠告に違いなかった。
―大好きな男の手はけして放しちゃ駄目。あなたが殿下を心から慕うのなら、今度は絶対に自分の心に嘘はつかないで。
 明姫はその時、ヒャンダンの言葉を心に刻み込んだ。

 その翌日、都漢陽では今年最初の桜が咲いた。更にその二日後の朝、黄維俊は観玉寺に逗留中の洪女官から書状を受け取った。
 その時、出仕前だった維俊は執事が運んできた手紙の差出人を見て一瞬、胸を時めかせたが―、次の瞬間、烈しい驚愕の表情を浮かべた。
 維俊は読んだばかりの書状を握りしめ、支度もそこそこに屋敷を飛び出した。
 
 ユンはコツコツと人差し指で執務机を叩いた。
「殿下」
 側に控える黄内官―むろん、内侍府長の方である―の気遣わしげな声にも気づかない。
「殿下」
 先刻より大きな声で呼ばれ、ユンは初めて面を上げた。むろん、頭の中は愛しい妃のことで一杯のあまり、忠実な内官の声もまるで彼には届いていなかったのである。
「爺や、どうかしたか?」
「ひとまず終わりに致しますか?」
 執務机にはまだ上奏文が山積みになっている。
「何故? まだ始めたばかりではないか」
 と、黄内官が遠慮がちに言った。
「お言葉でございますが、お疲れのご様子とお見受け致しましたので」
「いや、大丈夫だ。心配させて済まない」
 ユンは苦笑し、再び意識を手許の上奏文に戻した。
 その時、執務室の扉の向こうから、別の内官の声が響いた。
「殿下、黄内官でございます」
 父と息子が同じ職場にいるので、こういうときはややこしい。
「通せ」
 ユンのひと声で扉が外側から開き、黄維俊が入室してくる。
「殿下、一大事にございます」
 足音を消して歩くのが内官であるのに、まるで床板を踏みならすかのような歩きぶりだ。ユンは一瞬、信じられないといった顔で維俊を見たが、特に何も言わなかった。
 その代わりのように、黄孫維が窘めた。
「どうしたのだ、そなたらしくもない。騒がしいぞ」
 維俊はちらりと父を見、すぐにユンに向き直り恭しく一礼した。
「それどころではありません。殿下、急ぎお目にかけたいものがございます」
「何だ?」
 ユンが眼を見開き、維俊を見つめた。
「観玉寺にいる洪女官より手紙が届きました」
 意気揚々と告げる維俊を憐れむかのように見返し、ユンは気のなさそうに言う。
「恋文でも参ったのか? 嬉しいのは判るが、いちいち私に報告する必要はないぞ」
 いつもは鷹揚な王らしからぬ皮肉げな物言いに、父と息子は示し合わせたかのように視線を交わした。
 時はこれより少し遡る。その前夜、黄孫維は養子である甥維俊と自室で酒を酌み交わしていた。
―最近の殿下はどうもご様子が妙なのだ。
 気掛かりでならぬらしい父に、維俊は思い切って半月前のなりゆきを告げた。
―そのようなことがあったのか?
 孫維は愕きを隠せない様子だった。
―私はてっきり殿下が夜明け頃、観玉寺をお発ちになるとばかり思っていたのですが、殿下はまだ夜半といって良い時間に発たれたのです。ご様子がおかしくなったのは、あの直後からではないでしょうか。
 維俊は勢い込んで言った。
―淑媛さまと何かおありだったのでは?
 その言葉には、孫維は薄く笑った。
―お二人ともまだお若い。喧嘩くらいはなさるだろう。
 維俊は父ににじり寄り、周囲に人影がないのを確認してから声を潜めた。
―淑媛さまを都に呼び戻すことはではきないものでしょうか? 殿下は恐らく、そうなさりたいと思し召しているはず。
 孫維は溜息をついて、息子を見つめた。
―そなたもまだ若いな。殿下のお気持ちは淑媛さまが都を離れられる前から、変わってはおらぬ。だが、周囲の状況がそれを許さないのだ。そのようなことも判らないで、殿下のお側でご用が務まるのか?
―されば、尚更。
―愚か者めが。それができれば、私だとて、とうにやっておる。殿下もまた、できないからこそ悩んでおられるのではないか。淑媛さまは建前上、殿下の逆鱗に触れ、廃妃となり宮殿を追放されたことになっている。そのお方を再び宮殿にお迎えするとなれば、やはり、それ相応の理由、大義名分が必要なのだ。
―大義名分ですか。
 維俊の問いかけに、孫維は言葉は返さず、頷くことで応えたのだった。
「とりあえず、この書状をご覧ください」
 維俊は昨夜の父との話を思い出しながら、ユンに手紙を渡した。恭しく差し出された書状を受け取り、眼を通していたユンの顔が見る間に強ばってゆく。
「黄内官、これは真なのか?」
「洪女官が偽りをわざわざ書状に書いて寄越すような人物とも思えませんが」
 確かにそのとおりだ。公正無私で明姫のためになら生命をも賭して動く―そんな人物だからこそ、観玉寺にいる明姫の許に遣わしたのだ。その洪女官が幾ら主人思いでも、明姫の懐妊をでっち上げるとは思えない。
「内侍府長、これより観玉寺に行く」
 ユンは声を張り上げ、支度のために立ち上がった。

 明姫は小柄な身体を精一杯伸ばし、軒先の灯籠を取ろうとする。だが、いつもなら何とか手が届くのに、今は腰に痛みがあるせいで、手が今一歩のところで届かない。それでも無理をして取ろうして、ふらついてしまった。
―危ないッ。
 そのまま回廊から地面に落下するのかと眼を瞑ったが、なかなか、その瞬間は来ない。その中に身体がすっぽりと誰かに抱き止められた。どうやら回廊から落ちて地面に激突するところを親切な人が助けてくれたらしい。
 嗅ぎ慣れた樹木のような爽やかな香りが彼女を包み込み、明姫は儚い期待に胸を躍らせた。
 恐る恐る眼を開くと、そこにはユンがいた。ユンは怖い顔でこちらを睨んでいる。
「そなたは本当に危なかしくて眼が離せないな。五つの童でもあるまいに、何故、こんな無茶をするんだ」
 叱られるのも、怒る口調も何だか物凄く懐かしい。明姫は涙が込み上げてきて、ユンの広い胸に顔を押し当てた。
「来てくれたのね、ユン」
 最後のひとことに、ユンの身体がかすかに震えるのが彼の腕に抱かれる明姫にも伝わってきた。
「ずっと、ずっと逢いたかった。いつ来てくれるのかと思っていたの」
「あのような酷い仕打ちをした私をそなたは許してくれるのか?」
「ユンは私を嫌い?」
「そんなはずがないだろう」
 明姫は顔を上げて彼を見た。