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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 だから、そのときも体調の変化を特にたいしたものだとは考えていなかった。
 何とかして力づけようしてくれているヒャンダンのことを思えば、これ以上沈んだ顔は見せられない。明姫は立ち上がり、ヒャンダンに微笑みかけた。
「この寒さで春が足踏みしているようね」
「淑媛さまではありませんが、大丈夫ですよ。この雪が溶ければ、一挙に春がやって来ます。桜も大分綻んできていますから、数日中には花が見られます」
 ヒャンダンの口調も弾んでいる。明姫が笑っているので、少し安心したのだろう。
 二人はそれから洗濯に精を出しながら、女官時代の話や明姫にとっては伯母に当たる崔尚宮の話に打ち興じた。
「私、実は崔尚宮さまに鞭で打たれたことがあるんですよ。女官見習いとして入宮したばかりの頃、お八つ欲しさに生菓房に忍び込んで、大妃さまにお出しするお菓子を失敬したのがバレてしまいまして」
「ふふっ、それは災難だったわね。私が崔尚宮さまに鞭打たれたのは一度や二度ではないわ。伽耶琴(カヤグム)の出来が悪い、歴史書の憶え方が遅いといって、そりゃあもう何度叱られたことか知れないの」
 明姫の口調も女官時代に戻っている。崔尚宮は今頃、宮殿で盛大なくしゃみをしていることだろう。そう思うと、また笑いが込み上げてくる。
「後から考えたら、崔尚宮さまは素晴らしい上司です。普通、見習いがよりにもよって大妃さまのお八つを盗んだりしたら、どのような厳罰を与えられても文句は言えません。でも、尚宮さまは私を鞭打っただけで、そのことを内々に処理して下さいました。私はそのときから、崔尚宮さまを目標にして、いつかはあんな尚宮になりたいと野心を抱くようになったのです」
 伯母である崔尚宮を褒められて、明姫までも嬉しくなる。しかし、ヒャンダンの言葉は意外でもあった。
「ヒャンダンは尚宮を目指していたの?」
「えっ、ええ。まあ、身の程知らずの夢ですが」
 ヒャンダンが恥ずかしそうに言う。明姫は意気込んだ。
「そんなことはないと思うわ。私なんかいつもヘマばかりしていたけど、あなたは違ったでしょ。機転も利くし、人望もあったもの」
 ひとたび言葉を切り、明姫は小首を傾げた。
「あなたには気の毒なことをしてしまったのね。私の許に来たばかりに、尚宮になるという夢を奪ってしまった」
「とんでもありません」
 その語調の強さに、明姫ばかりか当のヒャンダンまで愕いているようだ。
「私は強制されたわけではなく、自分の意思でここに来たのです。崔尚宮さまより、淑媛さまの御許に行く女官を捜しているとお聞きしたそのときから、是が非でも私に行かせて頂きたいとお願いしました。尚宮になるという夢より、淑媛さまにお仕えする方が私は幸せなのです」
「私は本当に幸せ者だわ」
 明姫は涙ぐんでヒャンダンに言った。
「そうおっしゃって頂けて、光栄ですわ」
 嬉しげに笑うヒャンダンに、明姫は思いきった質問を振ってみた。
「ところで、ヒャンダンは黄内官さまをどう思う?」
「黄内官さま? 黄尚膳(サンソン)さまのことですか?」
「違うの、尚膳さまではなくて、ご子息の方よ」
「ご子息―黄維俊さまですね」
 心なしかヒャンダンの声が上擦っている。
「その、率直に訊くけれど、気を悪くしないでね。私はあなたが黄内官に特別な想いを抱いているのではないかと思っているんだけれど、違うかしら」
「い、いやですわ。急に真面目なお顔で何をおっしゃるかと思えば、私が黄内官さまをお慕いしているかだなんて」
 ヒャンダンは白い頬をすっかり上気させて、手のひらをぶんぶんと振った。
「何より私は女官ですし、黄内官さまは内官ですもの。仮に私たちの間に特別な感情が生まれることがあったとしても、恋愛に発展することはあり得ません」
 ヒャンダンは不自然なほど早口で言い、立ち上がった。
「淑媛さま、もうそろそろ帰りましょう。大切なお身体ですから、お風邪など引いてはいけません」
 そそくさと籠を持ち歩き出すヒャンダンを見つめ、明姫は肩をすくめた。
 どうやら、これは脈がありそうだ。何故か自分のことのように嬉しい。我が身とユンの恋は先行き前途多難で、恐らくは成就することはないのだろう。でも、それとは別に、親友とも思うヒャンダンの恋が実り彼女が幸せになってくれれば、これほど嬉しいことはない。
 ふと見上げた空は涯(はて)なく蒼かった。川縁には桜の樹が数本植わっている。どの樹も既に蕾がかなり膨らんで、可憐な薄紅色を覗かせている。桜の蕾にうっすらと雪が載っている眺めは現実離れしていて、なかなか美しい。
 ヒャンダンの言うとおり、あと少しで開花するに違いない。
 今にも開きそうな蕾を眺めているだけで、心が浮き立つようである。が、ふいに凄まじい嘔吐感が胃の腑の底からせり上がってきて、明姫は口許を手で覆った。少し先を歩くヒャンダンは気づいていない。
 足許に纏いついている小花が不安そうに見上げ、キャンキャンと鳴いた。
「大丈夫だから。すぐに良くなるからね」
 それは小花にというよりは、自分自身に言い聞かせる言葉であったかもしれない。

 翌日の朝になった。ヒャンダンは寺の厨房で薬湯を煎じていた。火鉢の上に土瓶を乗せ、時間をかけてゆっくりと煮出すのである。なかなかに根気のいる作業で、じっくりとやるのがコツだ。
「あれま、誰もいねえと思ったら、ヒャンダンさまがいたのけ」
 背後から賑やかな声がして、シミョンが入ってくる。
「おはようございます」
 ヒャンダンは丁重に挨拶した。明姫と同様、ヒャンダンもまた女官であったことをひけらかすような娘ではない。
 また、ここでの明姫の立場をヒャンダンはよく理解していた。明姫は廃妃であり、いわば流刑となり、この寺に預かって貰っている身だ。居候の身、ましてや、その使用人ともなれば寺の者に対しては一歩引くのが礼儀だと心得ている。
「おはようごぜぇます。それにしても、流石は女官さまだ。私ら鄙の下賤な女とは言葉遣いも立ち居振る舞いも月とスッポンだねぇ。淑媛さまを初めて見たときも、天女が寺に舞い降りてきなすったと思ったものだったが、天女さまにお仕えする女官までもが私らとは違う、えらい別嬪さんなんだねぇ」
「シミョンさん、そんなに褒めて頂いても、何も差し上げるものはありませんよ」
 ヒャンダンが笑いながら言うのに、シミョンは真顔で応えた。
「いんや、別に何も貰おうと思って言ってるわけじゃねえからさ」
 シミョンの視線がヒャンダンの手許に移った。ヒャンダンは火鉢の前に屈み込んで、団扇で風を送りながら、せっせと薬湯を煎じている真っ最中である。
「ところで、ヒャンダンさま。淑媛さまのお加減はまだ思わしくないのかえ?」
「ええ。この薬湯が胃の腑には効くから、もうずっと淑媛さまに差し上げているのだけれど。一向に良くならないのです」
 浮かない顔で言うヒャンダンに、シミョンが考え深げに言った。
「こんなことを言うのは何だげどもさ、淑媛さまは病気じゃないのではないかね」
「え?」
 ヒャンダンは思いも掛けない言葉に顔を上げ、まじまじとシミョンを見た。
 シミョンは少し罰が悪そうに視線を逸らす。