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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 いつもなら仮眠中の内官を起こすときは、?済まぬ?と気遣いのひとことを忘れない方なのだが、今夜はそれすらも忘れるほど王は取り乱しているようだ。
 王はますます馬脚を速める。黄内官も遅れじと今は余計なことを考えず、王の護衛をまっとうすることだけに集中した。 

 再生

 川縁に座り込み、明姫は惚けたように水面を眺めていた。春の陽光が川面に降り注ぎ、乱反射している。鏡面のような澄んだ水には明姫の顔が映っていて、その下を魚影が通過する度に、水が揺れ、明姫の哀しげな顔も揺れ動いた。
 明姫の周囲を小花が飛び回っている。一見して毛玉の塊にしか見えなかった小花は、ヒャンダンにお風呂に入れて貰ってからは見違えるように綺麗に垢抜けた。
 ぼさぼさだった黄褐色の毛も丁寧に梳いて貰っているから、もう毛玉の塊には見えない。ピンと立った耳や黒いつぶらな瞳は愛らしく利口そうで、明姫も可愛がっている。
―犬は用心のためにも役立ちますからな。それにしても、淑媛さまのようにお優しい方に拾われるとは、果報な犬じゃ。
 と、慈慶和尚からは快く飼っても良いとの返事を貰った。
 明姫は小さな溜息をつくと、また手を動かし始める。傍らには籠に入った山のような洗濯物がある。洗濯物を木の棍棒で叩いて汚れを落とす作業は、なかなか根気と体力が要る。
「痛」
 明姫は小さく呻き、腰を押さえた。数日前から腰の痛みが酷くなった。ユンに滅茶苦茶に抱かれてから半月が経っている。
 三月も終わりが近くなり、山は一斉に春を迎えようとしている。裸木であった樹には青々とした葉が茂り、土肌が見えていたところにも緑の下草が生え、さながら燃えるような緑の絨毯で覆われた。
 だが、その眩しい緑の光景も今は純白の雪に閉ざされている。昨夜、季節外れの雪が降った。朝から鈍色の雲が重たく垂れ込めていると思っていたら、夕刻から白いものが落ち始めた。
 雪は一晩中降り続き、朝には観玉寺の境内もうっすらと雪に覆われた。この季節に雪が降るのは十年ぶりだと今朝、慈鎮が話していたのを思い出しながら、やはりあの夜、ユンに慈鎮の名前を出さなくて良かったと思う。
 別にユンがあれだけで慈鎮をどうこうするとは思わないけれど、あの夜の彼は少し常軌を逸していた。それを思えば、万が一、災いが慈鎮の身に降りかからないとは限らない。
 ユンは国王なのだ。その気になれば、明姫も慈鎮も何なりと理由をつけて処断できる立場にある。
 大好きなユンをそんな風に権力を笠に着て横暴にふるまう暴君だと考えるのは哀しい。でも、あの夜の彼の酷い仕打ちを思い出すと、どうしても悪い方へと考えてしまうのだ。
 今、雪はすっかり止んでいる。しかし、そのせいで川水は身体の芯までかじかんでしまうくらいに冷たかった。この真冬の逆戻りしたかのような寒さで、膨らみかけていた桜の蕾も開くのを躊躇っているようである。
 あの夜から半月が経とうとしているが、腰の痛みはいっかな治る様子もない。あの翌朝、明姫は床から起き上がれなかった。腰から下腹部にかけて、身体を動かそうとすると激痛が走り、動こうにも動けない。
 様子を見にきたヒャンダンは愕いた。だが、後宮にいた頃も似たようなことが何度かあったので、すぐに原因を察したようだ。しかし、利口な彼女はそれには一切触れず、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
 厠に行くにもひと苦労し、指やユン自身をねじ込まれてかき回された下腹部は酷く痛みを訴えた。幾ら親友であるヒャンダンにでも、到底打ち明けられるものではない。
 今もしゃがみ込んで棍棒を使っていると、腰が痛むし、蜜壺にも鈍い痛みが残っている。思わず涙が溢れそうになり、明姫は目尻に滲んだ涙を指で拭った。
 彼女の背後では小花が歓んで雪の中を駆け回っている。この淋しがりやの犬はいつも明姫の後をついてくる。お陰で明姫の方も退屈しないで済んだ。
 ユンがここに来ることは二度とないのではないか。そんな気もする。あれだけ手酷い扱いをされても、情けないことに明姫はユンを嫌いになれない。いっそのこと、嫌いになれれば、もう彼が二度と来ないのではと不安に怯えたりしないで済むものを。
 しかし、万が一、彼が再び現れたとしても、彼がまた求めてきた時、身体を差し出せるのかどうかまでは判らなかった。もちろん、ユンは王なのだから、彼が望めば、明姫を好きにはできるだろう。そうなれば、また、あの辛く哀しい夜の繰り返しだ。
あんな優しさや労りの欠片もない営みに堪えられるのだろうかと考えると、ユンに逢う勇気はなかった。 
 と、背後でヒャンダンの慌てた声が聞こえた。
「淑媛さま、そのようなことをなさってはいけません」
 ヒャンダンが駆け寄ってきた。
「洗濯など私が致します。この寒さで風邪でも召されたら大事ですよ。それに、まだお身体も本調子ではないのに」
 ヒャンダンの言っている意味が判るだけに、恥ずかしくて消えてしまいたいくらいだ。
「大丈夫よ、もう殆ど治ったから」
 言い終えて、明姫は胸を片手で押さえた。
「またご気分が悪いのですか?」
 ヒャンダンが心配そうに訊ねてくる。明姫は忠実な侍女を安心させるかのように明るく笑った。
「ほんの少しだけね」
「どうしたのでしょうね。昨日も一日中、何も召し上がれなかったではありませんか」
 ひとたびは良くなりつつあった腰の痛みがぶり返した頃から、明姫は体調を崩した。一日中、気分が悪くて食べ物が食べられなくなったのだ。
 案じたヒャンダンが松の実粥を拵えて運んできてくれても、それすら受け付けない。酷いときには、食べてもいないのにムカムカして、すべて吐いてしまうほどだ。
「多分、胃の調子を悪くしてしまったのではないかしら。大丈夫、二、三日していれば治るから」
 ヒャンダンが笑った。
「淑媛さまはいつも私に大丈夫としか、おっしゃいませんね」
「そう―かしら」
「もう少し私を頼って下さいませ」
 明姫はヒャンダンを見た。ヒャンダンの愛嬌のある顔が少し淋しげに見える。
「何もかもお一人で背負おうとはなさらないで下さいませね。そのために、私はここに参ったのですから」
「ありがとう、ヒャンダン」
 明姫が立ち上がる。そこに丁度、小花がやって来た。大好きなご主人さまを見て、小花が盛んに尻尾を振る。明姫はしゃがみ込み、小花の頭を撫でた。
「淑媛さま、殿下は淑媛さまのことを大切に思し召しておいでですよ」
 ヒャンダンの声が頭上から降ってくる。明姫はゆるゆると面を上げた。真摯なヒャンダンの瞳が気遣わしげにこちらを見つめていた。
「あまりに淑媛さまを愛しておいでゆえ、時に暴走なさることもあるのでしょう。それもすべては殿下の若さと淑媛さまへの深い愛情からと拝察致します。どうかお気に病まれすぎませんように」
 ヒャンダンはここのところの明姫の不調があの夜に起因していると考えているようであった。身体の痛みもさることながら、精神的な打撃が大きいと思っているのだ。また明姫自身も同様に考えていた。
 きっと直に良くなる。元々、明姫はあまり深く思い悩む質ではない。一晩寝てしまえば、大抵のことは忘れられるという―よくいえば前向き、悪くいえば楽観的すぎるところがある。