何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
明姫はソリとユンのところに戻り、事の次第を伝えた。
「それは良かった。ではな、ソリ。元気で大きくなるのだぞ」
ユンがソリの眼線の高さになり、頭を撫でた。
「さようなら」
礼儀良くお辞儀し、ソリは駆けていく。その間際、明姫はソリにそっと言った。
「旦那さまから頂いた巾着は誰にも見せたり話したりしては駄目よ。あの一緒に帰ってくれるおじさんやおばさんにもね」
どんな善良な人物でも、金は時に人を夜叉にも変える。ソリが無用の災難に巻き込まれないためにも、それだけは言い聞かせておく必要があった。
「はい」
ソリは賢そうな黒い瞳をきらきらさせ頷いた。
「小花のことをよろしくお願いします」
小花というのは、ソリが連れてきた犬の名前だという。薄汚れた見た目は可愛くない犬だが、きれいに洗ってやれば、名前にふさわしくなるかもしれない。
小花はずっと大人しくソリの傍に従っていた。まだ成犬にはなりきっていないようだけれど、かといって生まれたての子犬というわけでもない。大人しく人によく懐いているところをみると、飼い犬に途中で棄てられたとも考えられた。
「任せて」
安心させるようににっこりと頷くと、ソリもまた白い歯を見せた。
小さな後ろ姿が中年夫婦たちと消えてゆくのを黙ってユンと見送る。
「明姫」
ソリの姿が見えなくなってから、ユンがしんみりとした声音で言った。
「はい」
明姫は黙って言葉の続きを待つ。
「亡くなった王女が生きていれば、あの年頃だ」
明姫の手前、?昭容の名前は出さないけれど、彼が言うのが?昭容の生んだ第一王女であることは判っていた。
「ソリは五つになったばかりと申していたから、一つ違いか。翁主が生きていれば、もう、四つになるのだな」
正室の生んだ王子は?大君(テーグン)?、王女は?公主(コンジュ)?と呼ばれるのに対して、側室所生の王子王女は?君??翁主(オンジュ)?と呼ばれる。
四年前、明姫が入宮して一ヶ月後に産気づいた?昭容は死産した。そのときは待ちに待った国王第一子の誕生を王初めすべての者たちが待ちわびていたのだ。
四日かがりの難産の末に漸く生まれ落ちた王女が息をしていないと知らされた時、宮殿中が悲嘆に閉ざされた。ユンは物言わぬ我が子を腕に抱き、泣いたものだ。
―哀れな。この世の光を見ることもなく旅立ってしまったのか、吾子よ。
「そなたに言うべきではないかもしれないが、王女には可哀想なことをした。今も時々、王女が生きていればと詮ないことを考えるときがある」
死んで生まれた我が子は、眠っているとしか思えないような安らかな顔をしていた。?昭容はいつまでも赤児を腕に抱きしめて離さず、葬儀も出せない状態であった。それをユンが傍で優しく宥め、?昭容の腕から赤児を抱き取ったのだ。
絹の産着にくるまれた小さな王女は王自らが小さな棺に入れ、赤児ながら国王の第一王女の格式をもって盛大な葬儀をあげて見送られた。
棺が出る瞬間まで、?昭容は号泣し、棺に取り縋って離れない。そのときもユンが話しかけて引き離したのだった。
―殿下、王女が王女が行ってしまいます。
気が狂ったように泣く彼女を腕に抱き、ユンもまた涙を流した。
―王女は天に還ったのだ。生まれてくるときまではさぞ苦しかったに違いない。これで漸く長い苦しみから解放されたのだから、静かに見送ってやろうではないか。
泣き続ける?昭容に言い聞かせたあの日から、もう四年が経つ。あれ以来、?昭容は精神に異常を来し、健康は回復したものの、いまだに夢現の世界を彷徨っている。
明姫が側室であった頃は、明姫以外に王の寵愛を受ける女は後宮におらず、現在に至っては王はどんな美しい女官にも見向きもしない。
こんな状態では、王の新たな御子が生まれるはずもなく、領議政を筆頭とする廷臣たちは皆、王室の先行きに大きな危惧を抱いていた。
「済まない。そなたには辛い話を聞かせた」
ユンが自嘲気味に言うと、明姫は真顔で首を振った。
「良いのです。私はまだ人の親になったことはありませんが、初めてのお子さまを失われた旦那さまのお気持ちは理解できます」
「そなたがそう言ってくれると、ありがたい」
ユンは溜息をつくと、広い境内を眺め回した。そろそろ参詣人も終わりになりつつあるが、それでも、まだ数人が残っている。
赤ん坊を抱いた若い夫婦、孫を連れてきたらしい老人、恋人たちらしい若者たち。皆、粗末な服を着ているが、愛する者、大切な者たちと共にいる姿は幸福そうに見える。
「私は心しなければならないな。ソリのような可哀想な子どもを作らぬよう、もっとこの国を良くしていかなければならぬ。皆が安心して暮らせ、貧しさに喘ぐことのない国を作り、今、ここで家族や恋人と寄り添い合い幸せそうな笑顔を見せている者たちの―民の笑顔を守っていかなければならない。それが王たる私の務めだ」
ユンの横顔は秀でており、たとえどれだけ身をやつしても、高貴な面差しは隠しようもない。王になるために生まれ育てられた、生まれながらの王者。まさに、そんな言葉がふさわしい。
ふいに、何日か前に慈鎮から聞いた言葉が明姫の脳裏に甦った。
―どうか機会があれば、私たち民の声を国王さまにお伝えして戴きたいのです。
真摯な表情で訴えていた慈鎮の気迫が今もありありと思い出される。
「殿下、お願いがございます」
思わず?殿下?と呼びかけずにはいられなかった。
「何だ、珍しいな。これまで一度も私にねだったことなどのないそなたなのに」
からかうように言われ、明姫は咄嗟に言葉を詰まらせた。
「少しは閨の中で可愛らしく囀りながら、ねだってみてはどうだ? その方が効果てきめんかもしれないぞ?」
冗談なのは判っていたけれど、明姫にしてみれば、言葉だけでも怖ろしい。
「ご冗談が過ぎます。それでなくても、後宮にいた頃、私は殿下をご寝所で誑かしているとさんざんな言われ様でしたのに」
「そなたはまだ女狐になるには幼すぎる。まっ、久しぶりに共寝をした限りでは、かなり大人になってきているようだが。そなたのような魅力的な女狐なら、幾らでも閨で誑かされてみたいものだ」
「―」
冗談好きの彼らしい科白に溜息が出そうになるのを堪え、明姫は真剣な面持ちで言う。
「殿下、さるお方がこのように仰せでした。この国には、幼い中から食べることも満足にできない大勢の子どもがいます。民は働いても働いても暮らしは楽になりません。両班は搾取するばかりで、賤民は家畜のように扱われ人としての尊厳すら持てない有様です。そして、そんな世を変えられるのは殿下ただお一人だと」
「その者の言うのは確かに道理ではある。よほどの学識と教養を備えた者と見えるが、一体、誰なのだ?」
「それは」
この場で慈鎮の名を出して良いものかどうか躊躇われる。ユンは独裁者でも暗君でもない。しかし、今の世を真っ向から批判されて、嬉しいはずはないのだ。慈鎮の指摘は下手をすれば国王を批判したとして、不敬罪に問われる可能性のあるものだ。
「名前が言えぬ者なのか?」
ユンの黒瞳が真っすぐに明姫を射貫いている。その視線の鋭さに、明姫は背筋に氷塊を当てられたような心地がした。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ