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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 身を捩り抗うのに、ユンがますすす強く抱きしめてくる。
「構わぬ」
 息もできないくらいきつく抱きしめられ、明姫もまた応じるかのようにユンの肩に顎を押し当てた。
「もう二度と、そなたを失いたくない」
 ユンのくぐもった声が震えていたのを、明姫は確かに耳にしたのだった。人眼も構わず抱き合う二人はどれくらいそうやっていたのか。ふと我に返ると、小さな塊がもぞもぞと足許で動いている。
 思わず明姫がキャッと悲鳴を上げ、ユンが渋々手を放した。
「何だ何だ。良い雰囲気になっているのに、色気のない」
 言いかけて、彼もまた足許を見て飛び退った。
「犬なのか?」
 汚れ、もつれた毛の塊と思いきや、それはどうやら生き物らしかった。
「あら、お前、どうしたの?」
 明姫がしゃがみ込むと、優しく声を掛けた。
 そこに、おずおずと小さな女の子が近寄ってきた。
「あ、あの。お姉ちゃん」
 ?お姉ちゃん?と呼ぶところを見ると、明姫が宮殿を追放された廃妃とは知らないようである。実際、村人の中には明姫の身分を知らない者も多いのだ。
「なあに?」
 愛想良く応える明姫と女の子のやりとりをユンは傍で微笑ましく見つめていた。
「この子は河原で拾ったの。いじめられっ子たちに苛められていたのを私が助けたんだけど。家に連れて帰っても、お母さんが飼っちゃ駄目だって。だから、お寺でなら飼って貰えるんじゃないかと思って連れてきたの」
 女の子は粗末なチマチョゴリを纏っている。五、六歳くらいだろうか。きちんと洗濯もされているが、接ぎは当たっているし、色褪せくたびれて粗末なものだった。ふもとの村の子だろう。
「それで、あなたはここで飼って欲しいのね?」
 女の子の頭がこっくりした。お下げにした髪も顔も薄汚れているものの、綺麗な顔立ちの利発そうな子である。
「判ったわ。私が飼っても良いかどうか、和尚さまに訊いてみる。どっちにしても、この子をまた棄てたりするようなことだけはないから、安心して」
「ありがとう」
 小さな声で女の子はきちんと礼を言った。黒く澄んだ瞳には理知の光がある。良い眼をした子だと思った。
「あとは、そのぅ」
 ユンを見ながら、もじもじと身体を動かすのを見て、明姫は背後を振り返った。
「あの方に何か?」
「うん。私も灯籠に願い事を書いて貰いたくて来たの。あの男の人に書いて貰えないかな」
 この時代、身分の低い者であれば、まだ読み書きはできないことが多い。ましてや、女であれば、尚更学問には縁がない。読み書きを憶えるよりも労働、生きていくのを優先しなければならないのだから、当然のことだ。
 だから、明姫が読み書きできないと思われたのも仕方ない。ましてや、今の明姫はこの女の子と大差ない質素な衣服を着ている。
「判ったわ」
 明姫は気を悪くもせず、ユンに囁いた。
「あの女の子が旦那さまに灯籠の願い事を書い欲しいと言っています」
「私に?」
 ユンは最初は愕いたものの、気持ちよく引き受けた。
「よし、おじちゃんがちゃんとそなたの願いを書いてやるからな」
 ユンは子ども好きらしく、上機嫌で女の子に話しかけた。
「あのね。私のお父さんがもう長い間、家に帰ってこないの」
 女の子は小さな口を懸命に動かして訴える。ユンはいちいち頷きながら耳を傾けていたが、やがて、その整った顔が次第に曇っていった。また、傍らで話を聞く明姫の心も重く淀んだ。
 女の子の名前はソリ、五歳になるという。母親と二人でふもとの村に暮らしていた。父は小作農であったが、数年前の飢饉続きで土地を地主に返さなければならなくなり、一家は生きていく目処を失った。
 このままでは親子三人でのたれ死にすると、父親は都へ出稼ぎにいった。しかし、地方で暮らしてゆけなくなり、わずかな希望と仕事を求めて都に出てくる者は少なくない。
 大抵は思うような仕事を見つけられず、そのまま消息を絶ったり、病や怪我で亡くなる者も後を絶たない。ソリの父親も都に出てから三年になろうというのに、帰ってくるどころか、行方知れずとなってしまった。
 母親は仕立てができるので、ここから近い町で手作りの巾着や手巾を売って得た僅かな収入で親子二人、何とか食いつないでいたが、一年前からは町で街娼紛いのことをするようになった。
「お母さん、夜になっても帰ってこないの。この間なんか、知らないおじさんと二人で帰ってきて、私は隣のおばさんの家に泊めて貰うようにって」
 ソリは言うだけ言うと、しゃくり上げて泣いた。まだ幼すぎてソリには理解できないが、話を聞けば、彼女の母親が売っているのは小間物だけでなく自分の身体までもであることは判った。
「だから、お兄ちゃん。お願いします。お父さんが一日も早く帰ってくるようにって、灯籠に書いて下さい」
 ソリは小さな手をすり合わせて、ユンが仏であるかのように拝んだ。
「ああ、判った。そなたの願いどおり、父御が早く帰ってくるようにとここに書こう」
 ユンは達筆な字で灯籠にソリの願い事をしたためた。
 三人で池辺に行き、ソリはユンに手伝って貰いながら、自分の手で灯籠を池に浮かべた。
「おい、そんなに身を乗り出すと、危ないぞ?池に落ちたら、どうするんだ」
 しきりに心配するユンを見ながら、明姫は思った。ユンなら、さぞかし子煩悩な父親になるだろう。二人の身なりこそ違えども、ソリの小さな手に我が手を添えて灯籠を水面に浮かべようとするユンの姿は、紛れもなく若い父親のそれに見えた。
「お兄ちゃん、見て! 灯籠があんなに輝いてる。綺麗」
 無邪気な歓声を上げるソリを片手で楽々と抱き上げ、ユンは話しかけた。
「済まない、ソリ。そなたのような親を失い、哀しみに暮れる子どもがいないような国を必ず作ってみせる。だから、心を強く持って、もう少し辛抱してくれ」
 ユンはソリをそっと地面に下ろし、袖から持ち重りのする巾着を小さな手に握らせた。
「これを持って帰りなさい。これだけあれば、お母さんもしばらくは早く家に帰れるだろう。ここには一人で来たのか?」
「うん、お母さんは今日も町に出かけてるから、私一人」
 あどけない声で言うソリはまだ本当に頑是ない。こんな小さな子が父親逢いたさの一心で険しい夜の山道を一人、上ってやってきたのだ。そのいじらしい心根を思うと、明姫も涙が出そうになる。
「行きはあの犬がいたからまだ良かったものの、帰りは、そなた一人では心許ないな」
「大丈夫よ、私はこの道はいつも通い慣れてもの。平気」
 気丈に言うソリではあるが、かといって、一人で帰すわけにもゆかない。
 明姫が思いついて言った。
「まだ他の村人がいますから、ソリと一緒に帰って貰えないかどうか訊いてきましょう」
 明姫は近くにいた子連れの中年夫婦に話しかけた。
「済みません。ソリという女の子がこれからふもとの村まで帰るのですが、一緒に村まで帰ってあげて頂けますか?」
「こ、これは淑媛さま」
 夫婦たちは明姫が誰であるか知っていたらしく、愕いた様子で恐縮している。
「判りました。ソリは下の倅と同じ歳でよく遊びます。家も近所ですし、お任せ下さい」
 夫婦は二人の男の子を連れていた。
「助かりました。くれぐれもよろしくお願いしますね」