何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
戯れ言めいて言う口調がいかにも彼らしい。今、自分は大好きな男の傍にいる。その幸せを噛みしめながら、明姫はある日の出来事を思い出していた。
「殿下はあの日のことを憶えておいでですか?」
「あの日というと?」
「三年前、殿下がおん自ら私を迎えにきて下さったときのことです。私が実家の庭にいて、桜草を見ていると、殿下はやはり今と同じ科白を仰せでした」
―そんなに見つめていては、桜草に穴が空いてしまうよ? お祖母さまは、そなたがまるで愛しい恋人を見つめるように熱心に桜草ばかり見ているとおっしゃっていたが、なるほど、確かに、お祖母さまの言うとおりのようだ。幾ら相手が花だといっても、少し妬けるな。桜草が羨ましいよ。
あの日の科白を繰り返すと、ユンが笑った。
「そうだったな。確かにそんなことを言った」
知り合って四年、その間の三年以上は離れていた。一緒に暮らしたのはわずか半年にも満たない。それなのに、何故かこの男とはたくさんの想い出を共有してきたような気がするのは、何故だろう?
考え込む明姫の耳許で、ユンが声を大きくした。
「明姫!」
あ、と、明姫は眼をまたたかせる。
「申し訳ございません」
折角遠くから来てくれたユンに対して、申し訳ない想いで一杯になった。
「私が何を話しかけても、先刻から上の空だぞ」
「申し訳ありません。失礼を致しました」
「申し訳ないは、もう要らぬ」
ユンは心もち低めの声で言い、明姫の顔を覗き込んだ。
「我が愛しき妻は、こんな眉目秀麗な良人がわざわざ都から夜半に忍んで訪れても、あまり嬉しくはなさそうだな」
言葉の割には、声には彼特有の揶揄するような響きが滲んでいる。これ以上、謝ったり深刻になりすぎない方が良い。幼くして後宮女官となった明姫は他人の顔色を見ることに長けている。
ユンが深刻になることを避けているのなら、これ以上拘り続けるのは止めた方が賢明だ。
明姫は明るい声音で応えた。
「眉目秀麗って、普通、ご自分で仰せになりますか?」
これには心底呆れ果てるが、確かに傍に立つユンは、すっきりとした鼻筋といい、切れ長の奥二重の瞳といい見惚れるような美男に違いない。
「誰も言ってくれないから、自分で言っているのだ!」
ユンは断固とした口調で言い、ちらりと横目で明姫を見る。その刹那、おどけた表情の彼と視線が合い、二人はどちらからともなく吹き出した。しばらく笑っていた二人だったが、やがて、ユンがふっと笑いをおさめた。
「だが、嬉しいと言う割には、そなたは元気がない。あまり嬉しくはなさそうだ」
明姫は微笑んだ。
「胸が一杯で―何も言えないのです」
ユンが眉をつり上げる。
「何故? 何か思い悩むことがあるのか?」
「違います。今し方、殿―」
コホンと小さく咳払いして、言い換える。
「旦那さま(ソバニム)のお書きになった灯籠を見て、胸がつまってしまって」
「私の書いた願い事に原因があるというのか?」
「はい」
明姫は頷き、ユンを見上げて極上の笑顔を浮かべた。もちろん、男の心を射貫くつもりなどさらさらなく、ただ心のままに微笑んだにすぎないのだが。
後に偉大な王の心を射止めた?傾国の微笑?と呼ばれたその微笑みも、当人はまったく意識しないものであったとは皮肉な話である。
「旦那さまがずっと私と共にいたいと願って下さった―、本当に嬉しくて言葉も出ないのです」
今度はユンの方が絶句する番だった。彼は繋いでいた明姫の手を引き寄せ、しみじみと眺めた。
「荒れているな。可哀想に、この二年もの間、どれだけ辛い日々を送ったのだろう、そなたは」
後宮にあって側室として時めいていた頃、明姫の手はこんなに荒れてはいなかった。この寺での日々の労働が彼女の手をここまで傷つけたのだ。
「先刻、お参りにきた老婆が言っていた。国王は淑媛を棄てたのだと。私はあれを聞いた時、自分がそなたに対してどれほど酷い仕打ちをしたのか、改めて突きつけられた想いがしたよ。たとえ本意ではなかったにしろ、私がそなたを裏切ったのは紛れもない事実なんだ」
ユンは小さく息を吸い込んだ。
「それなのに、お人好しのそなたは、そなたを棄てた私をいまだに慕ってくれている。もちろん嬉しいのは当然だが、こんな私にそんな資格があるのかと恥ずかしい」
ユンは明姫の荒れた手を両手で包み込み、大切なもののように頬に押し当てた。
「今夜、私は御仏に誓う。もう二度と、そなたを泣かせたりはせぬ。たとえ誰を敵に回しても、私はそなたを最後まで守り抜く」
「ありがとうございます。私のような者に勿体ないことです」
明姫の桜色の唇が戦慄いた。熱いものが目尻に滲んでくる。
「また泣かせてしまったな。今し方、二度とそなたを泣かせたりはしないと誓ったばかりなのに」
ユンが笑いながら言い、袖から手巾を取り出し、そっと明姫の涙を拭った。
「二人きりなら唇を使えるが、流石にここでは人眼があるし、まずい」
「旦那さまったら」
明姫が笑うと、ユンは頷いた。
「そうだ、そなたには笑顔がいちばん似合う」
ところで、と、ユンが意味深な視線をくれた。
「何を祈っていたのだ。私が来た時、そなたはこれまで見たことがないくらいに熱心に祈っていた。あれを聞かぬことには、どうにも気持ちが落ち着かなくて困る」
「話がまた元に戻りましたね」
明姫は笑い、ユンを見上げた。月光に濡れた黒曜石の瞳が煌めいている。このまま見つめていれば、魂ごと引き込まれ永遠に絡め取られてしまいそうだ。ユンはこの時、無意識の中に思った。
いや、自分は既にこの女に魂を奪われ、溺れてしまっている。今更、それを否定しても意味がないし、否定しようとも思わない。明姫は心傾ける―明姫の実のある人柄を思えば、傾けるというよりは心を預けるといった方がふさわしいかもしれない―に値する女だ。
「御仏はちゃんと私の願いを聞き届けて下さいました」
「一体、何を願ったんだ?」
明姫が秘密めいた笑いを浮かべるのに、ユンが躍起になる。
「隠されると、余計に知りたくなる」
「どうしても、お知りになりたいのですか?」
「むろんだ」
「どうしても?」
「くどい、何度も同じことを言わせるな」
唇を引き結ぶ彼は、まるで一人だけ秘密を教えて貰えずに拗ねている子どものようだ。
明姫は小さく笑った。
「あ、今、笑ったな。まったく失礼な奴だ。国王に対して無礼だ」
「あら、旦那さま。旦那さまは私とご一緒のときは、ただの男になるのだとおっしゃっていたではありませんか?」
「うぅ。ああ言えば、こう言う。巷ではよく言うそうだぞ、明姫。女房というものは長年連れ添えば連れ添うほど、強くしたたかになり、口数も増えるそうな」
「ふふ、それはあながち外れてはおりませんわ、旦那さま」
明姫は笑いながら言った後、真面目な表情になった。
「私が祈っていたのは殿下のお幸せと後は」
少し言い淀み、そっぽを向いてひと息に言った。
「殿下がいつかまた、こちにお越し下さいますようにとお祈りしたのです」
「―」
ユンの端正な面には、明らかに衝撃を受けたような反応が現れていた。
いきなり抱き寄せられ、明姫は愕いた。
「旦那さま、人が、村人が見ています」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ