何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
「殿下にも責任の一端はあります。お婆さんの前で良人だなんておっしゃるから。あのまま放っておいたら、お婆さんは?王さまがここにいる?って言いふらして、大騒ぎになりますよ? その方がよろしかったのですか?」
「何だか、そなたは性格が悪くなったような気がするぞ」
ユンが恨めしげに言うのに、明姫はまた笑う。
「夫婦は連れ添う中に似てくると申します。もしや殿下の意地悪が移ったのかもしれませんね」
「こいつめ。言わせておけば」
ユンが明姫を抱き上げた。
「殿下、人眼があります。このような場所では」
明姫が身を捩ると、ユンが破顔した。
「それなら、二人きりになれる、そなたの房に行こう。あのお婆どのも今夜は頑張れと言っていた。生意気な妻に十分お仕置きして、従順にしてやらねばならぬ」
その気満々らしいユンに、明姫は呆れたような声音で応じた。
「とにかく降ろして下さい。村人が見てます」
参詣人はまだ思い出したようにやって来ている。ユンは仕方なさそうに明姫を解放した。
「折角、お越しになったのですから、和魂祭をご覧になってはいかがですか?」
「和魂祭?」
ユンが不思議そうに訊ね返した。
「このお祭は観玉寺に昔から伝わる由緒あるお祭りだそうです。何でもあそこにある灯籠に願い事を書いて、この池に浮かべると願いが叶うと聞きました。また、そうすることによって、亡き人の魂を鎮めることもできるので、供養の意味もあるとか」
「なるほど、それで和魂祭か」
ユンは納得したように幾度も頷いた。
「この寺には幼い頃に何度か詣でたことがある。慈慶和尚とも面識がないわけではないのに、そういった話はまったく知らなかった。自国の風習も知らぬでは王失格だな」
「私も勉強不足で、ここに来るまで知らなかったのです」
明姫はさりげなくユンを宥め、話を変えた。
「殿下と慈慶和尚さまはお知り合いだったのですね?」
「ああ。だからこそ、そなたの身柄を託したのだ。慈慶どのなら、大切なそなたをきちんと懸かり人として預かってくれると思ってな」
今更ながらの彼の配慮に、明姫は胸が熱くなる。
前回の逢瀬から既に一ヶ月が経過していた。いつ逢えるか、もう逢えないのかもしれないと心は絶望と儚い希望との間を揺れ動いているような日々であった。
「おいで頂き、嬉しうございます」
素直に心情を吐露すると、ユンがハッと息を呑むのが判った。
「済まなかった。また、そなたを長く待たせることになってしまったな」
明姫は笑顔で首を振った。
「こうして殿下のお顔を見るだけで、待つ時間の長さも忘れられますゆえ」
「そなたはいつも可愛いことを言う。あまり可愛いことばかり申していると、このまま抱き上げて房に連れてゆくかもしれないぞ?」
ユンは笑い、明姫の手を握った。二人は手を繋いで、ゆっくりと広い境内をそぞろ歩く。あちこちに村人の姿がちらほらと見られる。慈鎮や他の僧が出て、親身になって村人たちの願いを聞き代筆している光景が見られた。
「今日はお一人で?」
「いや、爺やももう歳だ。あまりに心配をかけて倒れられたりしたら困るゆえ、黄維俊を伴に連れてきた。黄内官は洪女官の案内で、厨房の方に行ったが」
黄内官と向き合い、頬を染めるヒャンダンの様子を想像し、明姫は自然と頬が緩んだ。今頃は二人でゆっくりと語らっているのかもしれない。
少し躊躇い、明姫は言葉を慎重に選びながら続けた。
「これはあくまでも私の勘にございますが」
と前置きし、
「ヒャンダンは黄内官を好きなのではないでしょうか」
流石に予期せぬ話題で、ユンは少し愕いた様子を見せた。考え込む素振りを見せてから話す。
「そういえば、先日、黄内官が洪女官のことをしきりに褒めていたな。男にも負けないほど気概のある、見事な忠誠心を持つ女だと」
「あの二人なら似合いですわ」
「そうかもしれないな」
ユンは頷いた。
「私もかつては女官でした。ゆえに、女官の結婚は難しいのは判っていますが、折角好き合っている二人を何とかできないものでしょうか」
ユンが明姫を見た。
「うん、私の方からも一度、黄内官の気持ちを確かめてみよう。その上で二人が本当に慕い合っているというのなら、二人がうまくいくように取り計らう」
「ヒャンダンは私にとっては友であり姉のような存在です。女官時代だけでなく、側室となってからもずっと側で仕えてくれました。できれば、幸せになって欲しいと思います」
「黄内官も私には似たようなものだ。爺やが祖父なら、さしずめ彼は兄のようなものだな」
そこでユンは改めて明姫を見つめて笑う。
「そなたらしいな。自分のことよりも女官の将来の心配をするとは」
明姫の手を握ったユンの大きな手に力がこもった。
「だが、私はそなたのそういうお人好しなところに惚れたのだ」
「殿下!」
明姫が頬を上気させると、ユンが人差し指でその頬をつついた。
「閨の中ではあれほど奔放になっておきながら、今更、このような他愛ない言葉だけで紅くなるとは」
「知りません! 殿下はまったくお変わりになりませんね。とても意地悪です」
ユンは軽やかな笑い声を立てた。
「そなたといると、退屈しない。自分が王であることなどいつしか忘れて、ただの男になっている。それがとても心地よいのだ。そなたはどんなに辛い逆境にあろうとも、そこで大輪の花を咲かせることのできる女だ。いつまでも変わらないそなたの側にいるからこそ、私もまた変わらないでいることができるのであろうよ」
「殿下」
思いもよらぬ言葉に愕いていると、?シッ?とユンの指が明姫の唇に押し当てられた。
「まさかとは思うが、誰が聞いているか判らん。ここでは殿下とは呼ばぬように」
「申し訳ありません。配慮が足りませんでした」
素直に詫びる明姫に、ユンが眉を下げる。
「どれ、私も何か願い事を書いてみるとしよう」
灯籠は本堂の回廊沿いの軒下にズラリと吊られている。しかし、もう遅い時間のため、既にたくさんの灯籠が参詣人によって持ち去られていた。
櫛の歯が欠けたように空白があり、その合間、所々に灯籠がまだ残っているという状態である。
「あそこの灯籠の中からどれでもお好きなもの一つを選んで下さい」
軒下を指し示すと、ユンは適当な灯籠を選んだ。
「では、こちらを」
携帯用の硯と筆を差し出すと、ユンはさらさらと灯籠に書き付けた。
―妻と共にいつまでも暮らせますように。
李胤
「できたぞ」
ユンは満足げに呟き、願い事を託した灯籠をそっと池の面に浮かべた。彼の灯籠は直にあまたの他の灯籠に紛れて判らなくなる。
灯りを点した無数の灯籠が池の面を朱(あけ)の色に染めている。数え切れないほどの灯りが揺らめいていた。
咲き誇る紅梅の香りが夜気に乗って運ばれてくるのか、何ともかぐわしい香りが水面を渡る風に含まれていた。
「そなたはもう願いを書いたのか?」
傍らに立つユンが訊ねてくる。明姫はコクリと頷いた。
「そういえば、私が呼びかける前、そなたは随分と熱心に祈りを捧げていたのだったな。何をそんなに熱心に祈っていたのだ? そなたのそんな表情は初めて見た。何だか妬けたぞ」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ