小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

INDEX|87ページ/126ページ|

次のページ前のページ
 

 ユンは紙に載ったそれを一つ摘んで口に放り込んだ。甘くてほろ苦い味が口中にひろがる。蕗の薹だった。明姫らしいと、ユンは微笑み、二つ目を大切な宝石を扱うような手つきで掌に乗せ、じいっと見つめた。
「そういえば、明姫は菓子作りが得意なのだと言っていたな」
 変わった娘だ。揚げパンも大好物なのですと笑いながら言っていた。四年前、明姫の実家に二人で結婚の挨拶に出向いた時、その帰りにユンの?隠れ家?に寄った。市で買い求めた酒肴の中には揚げパンが入っていて、明姫は見ているユンが気持ち良いくらい、旺盛な食欲で揚げパンをぱくついていた。
「可哀想に、どれだけ心淋しい想いをしていることだろう。私が不甲斐ないばかりに、そなたには哀しい想いばかりさせる」
 今、明姫がここにいたら、大好きな揚げパンを心ゆくまで食べさせてやれるのに。ユンはそう思い、我ながら色気のないことだと一人で笑う。
 ユンの眼から熱い滴がしたたり落ち、手のひらに落ちた。涙は明姫の作った蕗の薹の砂糖煮を濡らす。ユンは二個目の菓子をまた口に含んだ。今度はこれが最後だから、ひと口ひと口、ゆっくりと味わうようにして食べた。
 想い人の作った蕗の薹の砂糖煮は甘みの中に、かすかな苦みが入り混じっている。ユンはそれが蕗の薹本来の持つ味なのか、それとも彼自身が落とした涙の味なのか判らなかった。
 
 祭りの夜

 明姫は先刻から池の汀にしゃがみ込んで、一心に水面を見つめている。水面には幾多の灯籠が浮かび、ゆらゆらと水面を照らしながら揺れている。薄紅の布を張った灯籠にはすべて片面に願い事が記されていた。
 今夜は一年に一度の和魂祭だ。本来はこの祭りは年の初めの満月の夜に行うものだが、今年は雪が何日も降り続き、祭りどころではなかった。観玉寺も僧や寺男たちが総出で雪かきをしただけでは足らず、ふもとの村からも応援が来てやっと事足りたほどだったのである。
 結局、一月に例年どおり行うのは無理で、今年だけは異例のふた月遅れとなった。
 この祭りは供養の意味合いが強い。賑々しく行われるわけでもないが、噂は噂を呼び、都からわざわざお参りにくる両班や商人もいると聞いている。
 もちろん、ふもとの村人たちもこぞって山を登って参詣にやってくる。村人たちの多くは文字の読み書きができないため、僧たちが代わって灯籠に願い事を書いてやる。人出が多い時間帯では猫の手も借りたいと思うほどの忙しさで、明姫もまた手伝いに出る。村人にいちいち訊ねては、願い事を灯籠に代筆した。
 今はその忙しさもひと段落した感がある。明姫は漸く自分の願い事を書くゆとりができた。やはり願うのは毎年、同じことだ。都にいるユンの健康と安寧を記し、灯籠を浮かべた。
 と、明姫の袖を引く者がいた。
「淑媛さま。わっちの倅に今年こそは良い嫁が見つかるようにと書いて下さいませんかのぅ」
 去年も明姫が代筆してあげた老婆である。小柄な老婆は腰が曲がり、ますます小さくなってしまったように見える。老婆の後ろには、その当の息子が所在なげに立っている。
 母親に似たのか、けして男としては背は高くないが、働き者で木訥そうな感じがかえって好ましい。
「わっちが四十になってできた末息子でしてなぁ。もうかれこれ三十になるというのに、嫁が一向に来ませんのじゃ。わっちは息子が気がかりで死のうにも死ねませんがな」
 確か去年も同じ科白を聞いたような気がするが、明姫は微笑んだ。
「判りました。では、大切な息子さんに器量よしで働き者のお嫁さんが来るようにとお願い事を書いておきましょうね」
 優しく言い、後ろでうつむいている息子にも声をかけた。
「あなたは何か願い事はありますか?」
「えっ、お、俺ァは。そのぅ」
「ああ、気が揉める。さっさと申し上げんかい」
 老婆が息子を叱ると、息子は真っ赤になり、余計に言葉が出ないようである。
「お婆さん、そんなに怒らないで。余計に言えなくなってしまうわ」
 明姫は息子に言い聞かせるように言った。
「あなたのお願い事は?」
「あっ、あの、淑媛さま。願い事は何を言っても良いんですか?」
 よほど緊張しているのか、声が上擦っている。
「ええ、御仏にお願いするんですから、何でも良いのよ」
 明姫が頷くと、若者はぶるっと身を震わせた。まるでびしょ濡れの犬が陸(おか)に上がったばかりのようだ。
「俺、俺―」
 明姫も老婆も息を呑んで次の言葉を待った。若者もここまで来ればと覚悟を決めたものか、ひと息に言う。
「淑媛さまに嫁に来て貰いてえ」
「この、馬鹿者めが」
 老婆が拳骨を振り上げて、倅をこずいた。
「い、痛ぇな。母ちゃん。何すんだよ」
「お前、このお方をどなたと心得る。この方は畏れ多くも―」
 言いかけた老婆に、明姫は笑った。
「お婆さん、良いのよ」
 今度は倅の方に向き直り、優しく言った。
「ごめんなさいね。せっかくお嫁さんにと言って貰ったけど、私には心に決めたお方がいます。ですから、どなたに嫁ぐこともできないんです」
 どうやら、倅は少し頭の回りが遅いようだ。それが彼の結婚を遅らせている原因でもあるのかもしれない。
 その時。ウォホーンとわざとらしい咳払いが聞こえた。明姫だけでなく老婆も倅も愕いて顔を上げた。
「―チ」
 明姫は思わず言いかけて、口を押さえた。
 ユンの今夜の出で立ちは紅梅色のパジチョゴリだ。今の季節、境内には所々、梅の樹が盛りと花をつけている。まるで季節に合わせたかのような華やかな色合いが彼の美男ぶりを際立たせていた。
「お婆どの。残念ながら、この者は私の妻です。ゆえに、幾らお婆どのの大切な息子さんとはいえ、妻を譲ることはできません」
 大真面目な顔で言うユンに、老婆が眼を白黒させた。
「淑媛さまの亭主、いや、ご主人ということは、あんたは王さまですかのぅ」
 それには明姫が慌てた。
「いえ、違うんです。お婆さん。この方は私の―、そう良人だった男で」
「あれま、淑媛さまは国王さまのお妃になる前に、結婚していたのけ?」
「えっ、ええ、まあ。そういうことです」
 仕方なく話を合わせると、老婆がしたり顔でふむふむと頷いた。
「それはお気の毒なことでしたのぅ。幾ら聖君と呼ばれる王さまでも、所詮は男じゃからの。気に入ったおなごがおれば、他人の女房でも召し上げるんじゃな。まっ、英雄色を好むとも申しますけん、当代の王さまもかなりの好き者と見えるわいな」
 老婆は言うだけ言うと、硬直しているユンの肩を気安く叩いた。
「まあ、淑媛さまも幸か不幸か王さまに棄てられて、こんな辺鄙な寺に流されてしもうた。あんたら夫婦が寄りを戻すなら今のうちじゃでの、旦那さま、まあ、今夜は気張りなされ」
 老婆は歯の抜け落ちた口を大きく開け、ほっほっと笑った。傍らの息子を一瞥し、?帰(け)
ぇるぞ?とさっさと先に立って歩き出す。
 息子が慌てて後を追いかけていった。
「何なんだ、あの婆さんは」
 ユンが思いきり眉をしかめている。
「そなたもそなただぞ。あれでは、私が色香に迷って人妻を無理に奪ったようではないか。また妙な噂が流れでもしたら、何とするのだ」
 明姫は笑いながら言った。