何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
ユンが許しさえすれば、ヒャンダンは後宮を下がり、維俊と結婚することだって可能なのだ。維俊は内官だから、結婚しても実質的な夫婦生活を営むのは難しいだろう。しかし、人が人を想うことは何も身体を重ねることだけが目的ではない。
心と心の繋がりといったものもあるだろうし、また、去勢した内官が女をまったく満足させられないわけでもなかろう。現にユンとの交わりだって、あの巧みな指先で身体中を愛撫されただけで達してしまうことはあるのだ。
―明姫は嫌らしいな。胸を吸われただけで、気をやってしまうのだな。
ユンに言葉で嬲られて、明姫は泣いてしまったことがある。まさか明姫が泣き出すとは思わず、ユンは物凄く狼狽して謝ってくれたけれど。
そこまで考え、明姫は薄闇の中、一人で頬を赤らめた。ヒャンダンが起きていなくて幸いだった。
好きな相手と祝福されて結ばれることのできるヒャンダンが羨ましい。だが、その結婚にも翳りはある。夫婦の営みができないことは即ち子どもに恵まれないのを意味している。
明姫も女だから、人並みに子どもを生み母親となってみたいという願いはあった。もちろん、大好きなユンの子どもを生み、育てたい。けれど、後宮でユンの妃として五ヶ月間、あれほど情熱的に愛されながら、明姫は懐妊することはなかった。
明姫が後宮を下がっていた間にユンが寝所に召した?昭容は、たった一度で懐妊したというのに。自分のいないときにユンが側室と関係を持ったというのは、確かに衝撃ではあった。
しかし、そんなことは最初から覚悟していたことだ。国王の側で生きるのなら、彼が他の女を閨に招き子をなすのがどんなに辛くても堪えなければならなかった。国と王室の存続のためにも、跡継ぎたるべき王子は必要なのだから。
何故、自分にはユンの子どもが授からないのだろうか。もしや自分は石女なのか? どれだけ愛されても、子どもを孕めない生めない身体なのかもしれない。
そう思うことは、とても哀しかった。殊に小僧の慈然や清慈を見ていると、余計に子どもを生んでみたいと思うようになった。ユンによく似た子どもをこの腕に抱くことができるならと思うが、次にいつ逢えるか判らないこの状況では、到底夢の夢だ。
逢いたい、ユンに逢いたい。心は切ないほどに彼を求めているのに、彼は遠く都にいる。
明姫はいつしか泣きながら眠っていた。
これは後日談になるが、明姫に仕えた女官ヒャンダンは内官黄維俊の妻になっている。
一方、都に無事帰り着いた黄維俊は翌朝、大殿の国王に報告に行った。その時、ユンは執務室で上奏文に眼を通している最中であった。側にはいつものように大殿筆頭内官である彼の伯父黄内官が控えている。
「殿下、ただ今、戻りました」
旅装を解いてすぐに休む間もなく出仕した彼を見、ユンは鷹揚に労をねぎらった。
「ご苦労だった。どうであった、明姫は元気に過ごしていたか?」
「はい。お見受けしたところ、お顔の色艶もよく、すごぶるお元気そうに見えました」
「それは良かった。で、洪女官と再会した様子は?」
矢継ぎ早に訊ねるその様子から、宮殿を追放されて二年を経てもなお、金淑媛が国王の心を捉えて離さないのが伝わってくる。
それに対して維俊は口ごもった。
「はあ」
彼の脳裏に再会した直後の二人の様子が甦る。あれは主人と側仕えというより、旧知の友人同士の再会に近い印象を受けた。金淑媛はやはり少々風変わりな―いや、稀有な女性に相違ない。
普通、身分の高い者であれば、あのように親しげに下の者に接したりはしないものだ。国王もまた身分に囚われない大らかな気性の方ゆえ、あのような女人を好まれるのだろうと思う。
まだ下級の内官にすぎない維俊に対しても丁重な態度を取っていたし、王への手紙をしたためている間、雑炊をふるまって休養を取らせることも忘れない。優しいだけでなく、心遣いのできる聡明な女人なのだ。
金淑媛が若い王の心を惹きつけてやまないのは何も外見の麗しさだけではない。口さがない者たちは淑媛が色香で王を誑かし骨抜きにしたと言うけれど、それだけではなかろう。
初めて間近に接してみて、維俊は王が何故、あの女性を寵愛するのか理解できた。もっとも自分なら淑媛にも魅力は感じるが、あの淑媛の側仕えだという女官の方が良い。
淑媛のような類い希な女を相手にするのは、自分のような凡庸な男では駄目だ。それに、淑媛のためなら生命さえ投げ打ちかねないあの女官も棄てたものではない。か弱い女の身で単身、零落したかつての女主人のために都落ちするなど並の覚悟ではできないことだ。
己れの立身ばかりしか頭にない他の内官どもに爪の垢を煎じて飲ませてやりたいほどだ。まったく女にしておくのは惜しいほどの見上げた忠誠心ではないか!
「お二人とも涙を流して久々の再会を歓んでおられました」
と、無難に纏めた返答を王には返した。
維俊が事の次第をひととおり報告し、淑媛から預かった書状と小さな巾着を王に手渡すと、王はしばらく眼を見開いてそれらを見つめていた。
「明姫がこれを私に?」
「はい」
頷くと、王は黙り込んだ。
「済まないが、内侍府長。一人になりたい」
伯父と甥は養父と養子の関係でもある。同じ黄氏なので、二人一緒にいる時、王は父親の孫維を?内侍府長?と呼び、息子の方を?黄内官?と呼んで区別している。もちろん、孫維と二人だけのときは呼び慣れた?黄内官?である。
父と息子は顔を見合わせ、同時に頷いた。
「畏まりました」
恭しく下がっていく二人を見送り、ユンはホウと溜息をついた。封筒から出すのももどかしく、中から手紙を取り出す。四つ折りになったそれを開くときは気が急ぎすぎて、手がみっともなく震えてしまった。
冬空澄蒼蒼
我的心暗曇
嵐吹心揺騒
汝面影不消
ひろげた紙は薄様の美しいものである。今の季節に開く紅梅のたおやかな花を思わせる優しい色。それは明姫の人柄そのままを表している。
紙にはたった四行の漢詩が流麗な女性らしい繊細な手蹟で書かれていた。
「明姫」
ユンは執務机に突っ伏した。わずか四行の詩からは明姫の哀切な訴えが十分すぎるほど伝わってきた。
彼女がこれほど自分を求めてくれているのは男としてこの上なく嬉しい。しかし、現況では、明姫に頻繁に逢いにゆくのは難しい。万が一、流刑に処している廃妃に国王自らが逢いにいっていると知れたら、大変なことになる。
自分の王としての評判などこの際、どうでも良いが、今度こそ明姫は生命が危ういかもしれない。明姫に毒杯を賜るようなことになれば、幾ら後悔しても取り返しがつかない。もし、そんな状況に追い込まれたら、今度こそ自分は惚れた女を守り抜く。女に毒薬を賜る前に、自分がその毒杯を飲み干して死ぬだろう。
だが、できれば、そんなことにはなりたくないし、したくない。そのためには慎重に行動する必要があるのだ。
ユンは手紙に添えられていた薄蒼の巾着に眼を止めた。巾着を手のひらに乗せて開くと、今度は懐紙に包まれた菓子が現れた。
「これは」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ