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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 利発なヒャンダンのことだから、これだけ伝えれば後はうまくやってくれるのは判っている。都から馬を駆って数時間かけてここまでやって来た黄内官を少しでも休ませたい。明姫はそう考えたのであった。
 房に戻り、明姫は墨をすりながら思案する。普通の手紙でも良いだろうが、ここはやはり、自分からの手紙だと容易に判らない方が賢明だ。だとすれば―。

 冬空澄蒼蒼
 我的心暗曇
 嵐吹心揺騒
 汝面影不消
 
 (冬空は澄み蒼蒼たれども
 我の心は暗く曇り
 嵐が吹き心が揺れ騒ごうとも
 汝の面影は消え去らない)

 冬の空は澄み渡り青々と輝いているが
 私の心は裏腹に暗く曇っている
 冬の嵐が吹き荒れ、心がどれだけざわめいても
 あなたの面影だけは私の心から消え去ることはない(風に吹き飛ばされることはない)

 明姫は思いついた詩編を薄様の紙に書き付けた。はんなりとした紅梅を彷彿とさせる美麗な紙である。
 それを急いで縦長の封筒に入れた。あたかも封筒そのものがユンであるかのように大切に胸に抱き、厨房へと向かった。
 厨房では黄維俊が椅子に座っていた。既に雑炊は食べ終えたらしい。シミョンの姿は見当たらなかった。お喋りな外見に似合わず勘の鋭いところがあるから、気を利かしたのかもしれない。
「お待たせしました。ちゃんとした部屋にお通しもせず、このような場所で申し訳ありません」
 明姫が丁重に詫びると、維俊はすぐに立ち上がった。
「何を仰せられます。こちらこそお気遣い頂き、恐縮しております」
 厨房には竈の他に調理台などがある。十数名の食事をここですべて賄うので、かなりの広さがあった。真ん中に大きな卓が据え付けられ、様々な器が並んでいる。明姫はその中の一つを取り、蓋を開けた。今朝、作り置きしていた蕗の薹の砂糖煮を少し懐紙に包み、薄青色の小さな巾着(チユモニ)に入れた。その巾着と手紙の入った封筒を維俊に渡す。
「これを殿下にお渡し下さいますように」
「確かに承りました。必ずや殿下にお渡し致します」
 維俊は恭しく受け取り、大切そうに袖に入れた。
 明姫はヒャンダンと共に維俊を山門まで見送った。
「黄内官」
 背を向けて石段を下りようとする彼がつと振り返った。
「何でしょうか? まだ何か殿下にお伝えすることでも?」
 だが、明姫は喉元まで出かかっていた言葉を無理に飲み下した。言えなかった言葉は明姫の心に重く沈んでいった。
「いえ、お引き留めして済みません。道中、お気を付けて」
 維俊はまた軽く頭を下げ、足早に石段を下りていった。明姫とヒャンダンも山門をくぐって境内へと戻る。
「淑媛さま」
 背後から呼ばれて、明姫は微笑んだ。
「なあに?」
「先刻、黄内官に何をおっしゃろうとしたのですか?」
 明姫は淋しげに笑った。
「別に、たいしたことではないの」
―殿下は今度はいつ頃、お見えになるのですか?
 本当はそう問いたかったのである。でも、そんなことを訊ねたとて、黄内官を困らせるだけだと思い、止めたのだ。
 ヒャンダンを寄越してくれたということは、ユンがまだ自分を大切だと思っている証にはなる。しかし、それとまたここまで通ってくるとなれば、話は別だ。
 何しろ観玉寺はあまりに遠すぎる。都から通うには距離がありすぎた。ましてや、ユンは国王なのだ。漢陽の町中ならまだしも、こんな遠くまで再々お忍びで来られるはずがない。
「それよりも、私こそあなたに訊きたいわ。ヒャンダンはどうやってここまで来たの?」
 身分のある女人の移動は輿が基本ではあるが、都からここまで輿で来るとなれば、一日がかりになる。それに輿であれば、担ぎ手たちも必要になってくる。ユンがヒャンダンをここに寄越したのはあくまでも極秘だろうから、伴は信頼のおける黄内官だけにしたはず。
「馬で参りました」
「ヒャンダンは馬に乗れたの?」
 少し愕くと、ヒャンダンは慌てて首を振る。
「いいえ、私は一人では馬には乗れません」
 彼女の白い面がうっすらと染まっている。
「では、黄内官と?」
「はい」
 消え入るような声には、いつものヒャンダンらしい闊達さはなりを潜めていた。
 なるほどと、明姫はヒャンダンの様子を見て得心した。ヒャンダンはあの黄維俊に好意を抱いているらしい。
「黄内官は素敵な殿方ね」
 水を向けてみると、ヒャンダンはますます紅くなる。
「そ、そうですか? 確かに武官かと間違うくらい逞しい男性だと―。あっ、いえ。あの方が内官だということを私は百も承知ですが」
 と、何ともはや、しどろもどろである。
「ヒャンダン、隠さないで」
 明姫は優しい眼で親友とも呼べる忠実な女官を見つめた。
「隠すって、何をですか?」
「黄内官のことよ。あなた、黄内官を好きなのではなくて?」
「そ、そんな。淑媛さま、私は何も」
 明姫は続けた。
「あなたはこれまでもずっと私の恋を応援してくれた。広い宮殿で私の味方はあなただけだったもの。だから、今度は私があなたの力になれるものならなりたいの。別に無理に訊き出そうとは思わないけれど、何か私にできることがあれば言ってちょうだい」
 と、ヒャンダンがすすり泣き始めた。
「ヒャンダン、黄内官をそんなに好きなの?」
「違います。淑媛さま、私は確かに黄内官をお慕いしています。でも、私が哀しくて悔しいのは、そんなことではありません」
「では、何故、泣くの?」
 困惑気味の明姫に、ヒャンダンは訴えた。
「淑媛さまのことです」
「私?」
 自分のことで、ヒャンダンが泣くようなことがあるのだろうか。
「お優しい淑媛さま。本当に二年間もこんな山寺でご苦労なさっていても、ちっともお変わりないのですね。ご自分がお辛い立場にいらっしゃるのに、私のことまで気に掛けて下さる。何故、こんなにお優しい淑媛さまが廃されて流罪も同然のこのような扱いを受けなければならないのか、私には納得がいきません」
 明姫は胸が熱くなった。ヒャンダンは他ならぬ自分のことで憤ってくれているのだ。
「ありがとう、ヒャンダン。あなたが来てくれて、本当に嬉しい」
 明姫とヒャンダンは抱き合い、ひとしきり泣き続けた。

 その夜、ヒャンダンと狭い房で枕を並べて眠った。側仕えの女官とはいえ、寝所で眠るのはいつも明姫一人―もっとも大抵はユンが訪れていたが―、女官たちは廊下に控えていた。だから、こうやって一緒に眠るのは実は初めての体験である。
 旅の疲れが出たのか、ヒャンダンはすぐに眠ったようである。明姫は一人、黙って天井を眺めていた。眼を閉じても、なかなか眠れない。
 ヒャンダンには本当に世話になっている。先刻も言ったように、彼女が本当に黄維俊を恋い慕っているというのなら、仲を取り持って上げても良い。
 女官が結婚するのは難しいとされているが、国王であるユンが許可すれば問題はない。
 それにしても、明姫はヒャンダンが少しだけ羨ましかった。自由に恋愛ができない内官と女官とはいえ、二人の関係は明姫とユンに比べれば、まだしも希望があるように思える。