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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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「だからさ、おとこはおんなをかえるんだよ」
「まだ言うか、このマセガキ」
 明姫は到底、お妃さまとは思えない言葉遣いで慈然の耳を引っ張った。宮殿にいる伯母の崔尚宮が聞けば、引っ繰り返って怒り出しそうである。
「い、痛ぇ」
 慈然が顔をしかめた。
「お姉ちゃんの言うことをちゃんときくまで、離さないからね」
「何がお姉ちゃんだよ、もう十九だろ? 立派なおばさんじゃないか」
「言ったわね、懲りもせずに」
 明姫は年甲斐もなく本気で怒っている。その時、山門の方に人影を認めた。二人連れらしい客人は遠目に見ても、ふもとの村人とは思えない。一人は長身の男で仕立ての良さそうなパジチョゴリ、もう一人は女のようである。外套を目深に被った様はやはりある程度の身分のある女性のようだ。
 都から来た参詣人なのかと考えただけで、不思議な郷愁を憶えずにはいられない。知らず引き寄せられるように彼らに近づいていく。
 怒りまくっていた明姫が嘘のように手を放したので、慈然は首を傾げ、清慈と顔を見合わせた。
「やっばり、淑媛さまはおかしいよな」
「そうみたいだね」
 二人は子どもなりに明姫の身に起きつつある変化を悟っているのだった。
 明姫が歩いていく中に、前方から近づいてくる二人連れの片割れ―女の方が走り出した。何を急いでいるのか、まろぶように一目散に駆けてくる。明姫が眼を丸くしていると、女が明姫に取り縋った。
「淑媛さま」
 女が外套を脱ぎ棄てた。刹那、明姫は声を上げた。
「ヒャンダン!」
「お元気でいらっしゃいましたか、淑媛さま」
 何と眼前で涙を流しているのは、女官のヒャンダンであった。後宮では明姫付きの女官として最後まで忠勤を励んでくれた。かつての親友であり同僚でもある。
「よく―よく来てくれたわね」
 明姫も込み上げてくる様々な感情に声を詰まらせた。
「お逢いしとうございました」
 ヒャンダンは滂沱の涙を流しつつ、明姫に抱きついた。明姫もまた自分よりはかなり上背のあるヒャンダンを抱きしめる。
「このような辺鄙な山寺でどのようにお暮らしかと、毎日そればかりを案じておりました」
 ヒャンダンは泣きながら訴えてくる。
「あら、ヒャンダン。ここの暮らしもそう棄てたものではないのよ。都と違って騒がしくもないし、空気も綺麗だしね。野菜だって、獲れたてのものをすぐに頂けるから、美味しいの」
 明るく返す明姫を見て、ヒャンダンはまた大声でわんわんと泣く。
「お労しい。かつては国王さまのご寵愛第一のお妃として時めいていらっしゃったお方が―」
 明姫は笑った。
「ヒャンダン、私はもう王さまのお妃ではないの。ただの明姫よ。ただ人の私には、今の暮らしが合ってるし、元々、私はお妃には向いてなかった。綺麗な服を着て身を飾り、じいっとしているのは苦手だったのよ。今のように動きやすい服で身体を動かしている方がよほど良いの」
 ヒャンダンはまだしゃくり上げながら、袖から取り出した手巾でしきりに涙を拭っている。
「何というか、やはり淑媛さまは淑媛さまですね」
「それは、どういう意味?」
「はい、たとえどこに行かれようと、淑媛さまはご自分の花を咲かせることがおできになるのですわ」
「私の花?」
「そのとおりです。淑媛さまは宮殿の後宮にあっては後宮の花、この山寺においでになっても山寺でまた新しい花を開かせられた。だからこそ、皆は淑媛さまをお慕いするのです。あなたさまが咲かせた花の優しさに触れて、皆、あなたさまを大切な方だと思うようになるのです」
 明姫がひっそりと微笑んだ。
「よく判らないけど、私はあなたが思ってくれているような、たいした人間じゃないわよ」
「控えめでいらっしゃるところも、お変わりになりませんのね」
 ヒャンダンの涙もどうやら止まったようである。二人の会話が途絶えたのを見計らったように、控えていた男が進み出た。明姫の前に出ると、丁重に一礼する。
「大殿内官の黄維俊と申します。この度は国王殿下のご命令により、女官どのをこちらまで送り届けに参りました」
 この若い内官の顔には見憶えがある。直接言葉を交わしたことは殆どないが、いつも内侍府長(ネシプサ。内侍府の長官。宦官の長)でもある黄内官の後ろに目立たないように控えていた。確か黄内官の甥だと聞いている。
「殿下のご命令で?」
 明姫の声音に訝しげな響きを感じ取ったのだろう。維俊は恭しく頷いた。
「淑媛さまには山寺のお暮らしにて色々とご不便もあろうかと女官を一人、お遣わしになりたいとのご意向でございます」
 通常、後宮の妃が平民に降格されても、本来なら、お付きの者が何人かは付くものだ。しかし、明姫の場合は観玉寺に来る前に伴は不要と断ったのである。
 もちろん、二年前も忠実無比なヒャンダンは一緒に行くと言ってくれた。が、華やかな都の、しかも後宮生活に慣れ親しんだ者にとって、下界と隔絶された山寺での世捨て人暮らしは酷すぎる。それを考えてヒャンダンや他の女官たちの申し出をありがたく思いながらもすべて断り、一人でやって来た。
「ヒャンダン、あなたの気持ちは嬉しいけれど、私は」
 言いかけた明姫を真っすぐに見上げ、ヒャンダンは真顔で言った。
「今度ばかりは帰りません。幾ら淑媛さまが帰れと仰せになっても、私は帰るつもりはありません」
 横から維俊もまた言い添えた。
「淑媛さま、これは王命によるものです。ゆえに、お断りになるならないの問題ではありません」
 王命と言われてしまえば、明姫にも断ることはできない。明姫は苦笑を滲ませてヒャンダンを見た。
「ヒャンダンにはここの暮らしは向いてないと思うわ。多分、十日もしない中に都に帰りたくなるわよ?」
 と、ヒャンダンは形の良い眉を心もちつり上げた。
「私を甘く見ないで下さいませ。こう申しては何ですが、私は両班出身ではありません。常民(サンミン)ゆえ、贅沢な暮らしなどすぐに忘れられます」
 それにと、ヒャンダンが微笑んだ。
「私もまた淑媛さまの咲かせられた花に魅せられている一人なのですから。どうかお側に置いて下さい」
 頭を下げられ、明姫は瞳に涙を浮かべた。
「ありがとう。ヒャンダン。あなたにはまた苦労をかけてしまうけれど、あなたがいてくれたら本当は心強いし嬉しいの」
「勿体ないお言葉」
 またしても女二人の長い会話が始まりそうな気配に、維俊が慌てて割って入った。
「時に淑媛さま、私は今日の中に山を下り、都に戻らねばなりません。殿下に無事、女官どのを送り届けた旨をご報告します。その際、淑媛さまから殿下にお言付けがあれば承るように殿下から申しつかっております」
「判りました。今、房に戻って文(ふみ)を書いて参りますゆえ、今しばらくお待ち下さい」
 明姫は早速、ヒャンダンに頼んだ。
「ヒャンダン、到着した早々で申し訳ないけど、黄内官を厨房にお連れして、雑炊でも作って差し上げて。その間に私は殿下へのお手紙を書きます」
 ヒャンダンに厨房の場所を説明すると、ヒャンダンは嬉しげに頷いた。厨房にはシミョンがいるはずだからと話すと、眼を輝かせた。明姫を一生涯の主人と思い込んでいるヒャンダンは明姫のために働くのが嬉しくてならないのだ。
「判りました」