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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 慈鎮の常に優しい笑みを絶やさない顔の下には、複雑な生い立ちがあった。慈鎮は慈慶和尚の高弟として幼い小僧たちの指導に当たっているほどの人物である。僧侶に子はいないため、次の住職候補は慈鎮に違いないと目されている。
 そんな徳のある人ならば志願して僧の道に入ったのだとばかり思い込んでいたのだが、現実は違ったようだ。
―この国には、幼い中から食べることも満足にできない子どもがごまんといる。
 慈慶の言葉は真実に違いない。貧しい農村で育ち、自らも周囲にも飢えていた子どもを見てきたのだろう。
―そんな世の中を変えることができるのは、この国では国王さまただお一人です。どうか、機会があれば、私たち民の声を国王さまにお伝えして戴きたいのです。
 本当にそんな日が来るのだろうか。ユンに慈鎮の―民の悲痛な叫びを伝えられる日が自分にあるのか? だが、もし今度、ユンが訪ねてきてくれたとしたら、必ず慈鎮の言葉を伝えるだけは伝えてみようと思った。
 もしかしたら、慈鎮は五日前にこの寺を訪ねた男―ユンが明姫の房に泊まったのも知っているのではないか。だからこそ、こんな山奥まで廃妃を訪ねてくる人物といえば一人しかないことを知っている。
 そこまで考えて、ユンの泊まっていったことを知るならば、まさか房内で繰り広げられた営みまで知っているのではと思い至り、カーッと身体中の血が沸き立つような恥ずかしさに見舞われる。
 慈鎮のような徳の高い僧侶からすれば、あれは単なる醜い肉欲の交わりにすぎず、御仏の情けに縋って生きている身であるにも拘わらず、男―たとえ国王であるとしても―を引き込んで淫蕩な情事に耽っている自分を彼がどう見ているか? そう考えただけで、恥じ入って消えてしまいたい心地になった。
 しかし、先刻の慈鎮の態度には、そういった侮蔑などは一切感じられなかった。だとすれば、慈鎮が仮に五日前の夜のことを知っていたとしても、明姫が懸念するような軽侮は抱いていないのではないかと察せられる。
 一人、蒼くなったり紅くなったりしていると、突如として脇からチョゴリの裾を引っ張られた。
 ハッとして振り向くと、そこには二人の幼い小僧がいた。いがぐり頭が思わず抱きしめたいくらい可愛い。一人は八歳くらい、もう一人は六歳くらいだ。
「慈然さんと清慈さん」
 この二人が現在、観玉寺にいる小僧二人である。もちろん双子でも兄弟でもないのだが、そう間違えても仕方のないほどに仲が良くて、いつもくっついている。
 顔かたちは正反対。年上の慈然は面長で、身体もひょろ長くて痩せているのに対し、年下の清慈は丸顔で小柄、少し太っている。
「どうしたの? お八ツなら、厨房にあるから、シミョンさんに言って貰えば良いわ」
 明姫は屈み込むと、二人の眼線の高さになった。
「お姉ちゃんが昨日、川辺で見つけた蕗の薹をお砂糖で煮詰めたの。甘くて美味しいわよ?」
 と、慈然が口を尖らせた。
「あれ、美味しくないよ。この間も食べたけど、苦いだもん。なっ、清慈」
 話を振られて、清慈は口ごもった。
「僕は美味しいと思ったけど」
「こいつ、話を合わせろって、いつも言ってるのに」
 げんこつを清慈に入れようとした慈然の振り上げた拳を明姫が掴んだ。
「駄目よ、小さな子を苛めちゃ」
「だって、こいつは年下の癖に生意気なんだ」
 仲が良い癖に、喧嘩ばかりする二人である。
「慈然だって、いつも僕に偉そうに命令するばっかじゃないか」
 途端に喧嘩が始まりそうな気配に、明姫は慌てた。
「判ったから! もう喧嘩は止めなさい。喧嘩しなかったら、これからあれを作ってあげる」
 清慈の小さな顔がパッと輝いた。
「本当かい? 本当にアレを作ってくれるの」
「もちろん、ただし、二人がもう喧嘩しないって約束してくれるならね」
「―判ったよ。淑媛さまに約束するよ」
 慈然が仏頂面で言い、清慈はにこにこと笑いながら頷いた。
 ちなみに、アレというのは小麦粉を練って油で揚げた菓子―揚げパンである。実は明姫の大好物なのだが、山寺ではなかなか手に入らない貴重品だ。
 麓の村長の妻が地方両班の娘ということで、時々、油や小麦粉、砂糖といった材料を少しだけ寺まで届けてくれる。その材料を少し拝借して作る揚げパンはこの二人の幼い小僧たちに大人気であった。もちろん、揚げたばかりのパンには砂糖をまぶす。
「ところでさ、淑媛さま、何か良いことがあったのかい?」
 ませた口調で訊いてきた慈然に、明姫は眼を瞠った。
「良いこと?」
「うん、何だか、ここのところ物凄く機嫌が良いじゃないか。鼻歌とか歌っちゃってさ。今朝も朝飯作りながら、歌うたってるところを俺、見たぞ」
 な? と傍らの清慈にまたもや相槌を求めると、今度ばかりは清慈もコクコクと頷いた。
「俺さ、不思議に思ってシミョンおばさんに訊いてみたんだよ。そうしたら、シミョンおばさんが言ってた。えーと」
 あまり物覚えが良くない慈然の隣で清慈が声を張り上げた。
「おんなのきげんがめっぽういいときは、たいていは、おとこがからんでるもんさ」
 性格と見た目も違うように、清慈は慈然と違って物覚えもよく、理解も早い。仲の良い二人だが、僧侶としての修行はもちろん年下の清慈の方が進んでいる。
 しかし、優しい清慈はそれをひけらかすこともなく、年上の慈然には一歩下がって接している。子どもながら、思慮深い清慈だ。
「し、シミョンさんがそんなことを言ったの?」
 シミョンというのは寺男の女房で、三十歳ほどになる。この観玉寺では明姫の他に唯一の女性だ。一年前までは二人の尼僧がいた。一人は老齢で、もう一人は年若く二十歳といっていた。しかし、去年の冬に老いた尼僧が大往生したのを見届けてから、うら若い尼は修行の旅に出ると山を下りていった。
「もう〜、シミョンさんったら、子ども相手に変なことを吹き込んで」
―これは後でちゃんと諫めておかないと駄目だわ。
 明姫は吐息をつき、首を振った。
 と、清慈までが考え深げな黒い瞳をくるっと回して言う。
「僕は心配してるんだよ、淑媛さま。昨日の昼は、和尚さまと読経の最中に淑媛さまは上の空だったでしょう? それで、淑媛さまは和尚さまにこっぴどく叱られちゃったんだよね。和尚さまもあの後で、凄く心配してたんだよ。いつもはお勤めに真面目に取り組んでる淑媛さまがどうして急に上の空になったのか、どこか具合が悪いのかもって」
「―」
 明姫はまたしても蒼くなった。そういえば、確かにそんな出来事があった。昨日の昼下がり、いつものように小僧二人と明姫が本堂に集められ、慈慶和尚が御仏に読経を手向けている最中、明姫は完全に心ここにあらずの体になってしまった。
 もちろん、ユンのことを考えていたのだ。いつしか唱えているはずの経もぴたりと止み、ボウと放心したように虚空を見つめていた。そこを慈慶和尚に見つかり、後でさんざん説教を聞かされたのだった。
「馬鹿だな、清慈。だから、淑媛さまが急に上の空になったのはオトコが原因だよ、オトコ」
 慈然が知った口ぶりで言う。明姫はもう頭を抱えたくなった。
「ちょっと、あなたたち。まだシミョンさんの言葉の意味もろくに判らないのに、ませたことを言うんじゃないの!」