何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
せめて帰るのを見送りたかったのに、自分は昨夜、四度も気をやってしまった挙げ句、だらしなくも泥酔していたらしい。と、房内の片隅に置いてある文机の上の紙片が眼に付いた。
―また必ず来る。
たったそれだけしか書いていなかった。明姫が写経に使っている硯や筆を使ったのだろう。男らしい伸びやかな手蹟はユンのものに違いない。
明姫は小さな紙片を胸に抱いて泣いた。もう、離れられない。離れたくない。
二年前はユンのためにと自ら身を退いたも同然であったけれど、今度は彼を手放したくない。いっそのこと、ユンが名もないただの男であれば、この人里離れた山寺に身を隠し二人だけで暮らすこともできるかもしれない。
ユンは国王なのだ。国王の住まいは都の宮殿と決まっている。罪人の明姫が再び宮殿に戻れるはずもなく、また戻りたいとも思わない。悪意と陰謀の渦巻く宮殿は伏魔殿だ。今更、帰りたいと思うはずもなかった。だから、こうして、ここでユンがまた訪ねてきてくれるのを待ちわびているしかない。
しかも、ユンは昨夜、気まぐれに訪ねてきただけで、もしかしたら次はないかもしれない。後宮には王のための美しい女たちがごまんと控えている。たくさんの美しき花に囲まれている彼が、こんな山寺までわざわざ明姫に逢いにくる必要もないのだ。そう思っただけで、絶望に気が狂いそうになってしまう自分が情けない。
いっそ知らなければ良かった。知らなければ、このまま穏やかに時が過ぎて、やがて明姫は永遠の諦めを手に入れられただろうに。あの男の優しい笑顔や深い声に触れてしまったばかりに、自分はまた見果てぬ夢を見ようとしている。
国王であるあの男が自分のために再び都からここまで来てくれるだなんて、身の程知らずで馬鹿げた夢を。
甘い一夜の記憶は、すぐに明姫を果てのない絶望へと突き落とす。明姫は滲んできた涙をまたたきで散らし、再び大根の入った籠を持ち上げた。
「大丈夫ですか?」
ふいに背後から気遣わしげな声が聞こえてきたかと思うと、籠が取り上げられた。
「慈鎮さま」
明姫が眼を見開く。
「これはかなり重いな。よく川まで運べましたね」
慈鎮がいつものように穏やかな笑みを浮かべている。彼の手にはちゃんと籠がおさまっていた。
「こう見えても、私は力だけはあるんですよ?」
握り拳を持ち上げて見せると、慈鎮が声を上げて笑った。
「あなたは不思議な女(ひと)だ。見かけは私たち修業中の身には眼の毒なほどに妖艶で美しいのに、中身はまるで正反対です。無邪気で天真爛漫で、まるで童女のようですね」
「慈鎮さま。それって、褒められているのか、けなされているのか判りません」
明姫が頬を膨らませると、慈鎮はまた笑う。
「そういうところが幼いと言うのですよ」
こんな軽妙な会話を交わしていると、何故か懐かしくなってしまう。そう、ユンともいつも、こんな風に丁々発止とやり合っていたはずだ。
もっとも、彼が国王だと判ってからは、ここまで軽口をたたき合うこともなくなった。でも、彼と出逢ったばかりの頃には、こんな感じで二人、顔を合わせれば痴話喧嘩の延長めいた会話ばかりしていた。
不思議だ、見かけは全然似ていないはずなのに、慈鎮とユンはどこか似ている。春の陽だまりのような笑顔やさりげない優しさも、慈鎮の何もかもがユンを思い出させる。
またもユンとの想い出に浸っている明姫の耳を、慈鎮の声が打った。
「明姫さまは後悔したことがおありですか?」
「後悔、ですか?」
物問いたげな視線には何か意味があるような気がして、明姫は思わずうつむいた。
後悔と言われて、一瞬、ユンとのことを考えた。二年前、彼の側を離れたのは正しかったのだろうか。今頃になって、そんなことを考えてしまう。
だが、幾度考えてみても、あのときは自分がユンの側を離れるのが最善の道であった。あのまま明姫が彼の側にとどまり続けたら、王としての彼の立場はのっぴきならぬものになっていたはずだ。
だから、これで良いと思うのに、その傍ら、彼の側を離れたこと自体は間違いであったのではとも思う。その男を愛しているなら、やはり絶対に離れるべきではないと今の明姫なら考える。特に数日前、ユンと再会してからは、その想いが強くなった。
「私は今、少しだけ後悔していますよ」
慈鎮が呟くように言った。
「何を後悔なさっているのですか?」
詮索するつもりはなく、ただ話を合わせただけにすぎなかった。
慈鎮がまた意味ありげな顔で明姫を見た。
「あなたのような女に出逢えるのなら、御仏にお仕えする覚悟は少し早すぎたのではないかってね。明姫さまのような女性を妻にできる方は本当に果報者だ」
「慈鎮さま!?」
悲鳴のような声に咎めるような響きが混じってしまった。慈鎮がフッと笑った。自嘲めいているようにも淋しげにも見える笑い方だ。
「大丈夫、心配しないで下さい。私は別に、あなたをどうこうしようなんて考えてるわけではないんです。ただね。私は元々、口減らしのために親に出家させられました。御仏に仕える身で恥知らずな言いようですが、けして自分から望んで入った道ではなかった。寺に入れられた最初は、何度も脱走しようとしては失敗し、慈慶さまにきついお叱りを受けました。今でもね、時々思うんですよ。もし世捨て人になどなっていなかったら、自分にはもっと別の生き方があったんじゃないかってね」
慈鎮が明姫を見つめた。
「もちろん、その別の生き方というのが今より良い暮らしだとは思いません。親が私を寺に入れたのも、小僧になれば、とりあえずは衣食住にも困らず、学問もさせて貰えるからという理由でしたので」
彼は遠くを見つめるような瞳で首を振った。
「もしかしたら、明姫さまはやはりこんな山奥で終わるような方ではないのかもしれません。こんなことを言うのは差し出がましいのですが、五日前の夜、寺の近くに見慣れない立派な馬が繋がれているのを見ました。翌日の明け方には寺男が都から来た両班らしい方がその馬に乗って帰っていくのを目撃しています」
「慈鎮さま、その方は―」
昔の知り合いなのだと苦しい言い訳をしようとした時、慈鎮がいつもの凪いだ笑みを浮かべた。こんな風に笑う時、彼がいちばんユンに似ていると思う瞬間だ。
「良いのです」
慈鎮が明姫を遮るように言った。
「私は別にその方がどなたかを詮索するつもりはない。ですが、淑媛さま、どうかこれだけはお忘れにならないで下さい。この国には、幼い中から食べることも満足にできない子どもがごまんといる。私のようにまだ小僧になれた者は良いですが、多くは働けども働けども暮らしは楽になりません。両班からは不当に搾取され、隷民ともなれば、あたかも家畜のように売買され人として見ても貰えない。そんな世の中を変えることができるのは、この国では国王さまただお一人です。どうか、機会があれば、私たち民の声を国王さまにお伝えして戴きたいのです」
慈鎮はふわりとやわらかな笑みを浮かべ、一礼した。
「大根は寺の厨房の方に届けておきますね」
彼はいつもの穏やかな口調で言うと、そのままゆっくりと去っていった。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ