小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

INDEX|8ページ/126ページ|

次のページ前のページ
 

 男の子はぴょんぴょんと跳びはねるようにして駆けてきて、男にしがみつく。男もまた男の子をさっと腕に抱えて、抱き上げた。
「ホホウ、しばらく見ない中に大きくなったな、マル」
「何で長い間、来てくれなかったの? 僕、おじちゃんが来るのをずっと待ってたのに」
 子どもが頬を膨らませるのに、ソル老人が寝床から窘めた。
「これ、若さまに失礼を申すものではない」
「本当だぞ。私はこれでもまだ、二十一なのだ。おじちゃんは幾ら何でも酷(ひど)い。せめて、お兄ちゃんと呼んでくれ」
 男は笑いながら子どもを高い高いをするように持ち上げた。
「申し訳ありません、若さま」
 傍らから臈長けた女が淑やかに一礼した。
「気にしないで下さい。マルにとっては、私は親戚の叔父みたいなものなんです。私だって、別に何とも思ってはいないし、むしろ、こうやって、たまに訪れる私にマルが懐いてくれるのが嬉しいんだから」
 女は清潔ではあるが、木綿の粗末なチマチョゴリを纏い、子どもも同様に木綿のパジを着ている。
 二人のやりとりを側で聞きながら、明姫は自分だけが何か取り残されている気がしてならない。誘われたからといって、何で、のこのこと付いてきたりしたのだろう。
 女やソル老人の態度を見ても、この若い男が相当の身分であろうことは容易く察せられる。好きになっても、端から見込みのない男なのに。
 そこまで考えて、思わず身を固くする。
 私、この名前も知らない男を好きになったの? 歳は今、確か二十一だと言った。まだ本当に若いのだ。
 じゃあ、あの花は―桜草はソル老人ではななく、この美しい女性のために持ってきたのだろうか。そう考えただけで、心が妖しく波立つのは何故なのか。この女が男の持ってきた桜草を嬉々として花瓶に活ける姿を想像しただけで、心がどす黒いものに染まってしまいそうだ。
 もしかして、これは嫉妬―。明姫は愕然とした。互いに名前どころか、どこの誰とも知らないのに、恋に落ちるなんてことが現実にあり得る? いや、向こうは自分のことなど何とも思っていないのはよく判っているから、これは自分だけの勝手な横恋慕にすぎない。
「お姉ちゃん、綺麗」
 突然、話しかけられて、明姫は現実に引き戻される。男の子―マルが大きな眼を輝かせて見上げていた。
「この方は―」
 女が物問いたげに訊ねると、男が笑った。
「宮殿で働いている女官ですよ」
「わあ、本物の宮女さまだぁ。宮女さま(ハンアニム)、宮女さま」
 明姫はしゃがみ込むと、回りを飛び跳ねるマルと同じ眼線の高さになった。
「宮女といっても、まだほんの下っ端。去年、見習いから一人前になったばかりなのよ」
「それでも、私たち常民(サンミン)が宮殿の奥深くにお住まいの女官さまと直接こうして口をきく機会などありませんから」
 女の物言いには気のせいか、少し刺があるように感じられたが、気のせいだったろうか。
 常民というのは奴隷である隷民とは異なり、ごく一般の庶民だ。
 取りつく島もない態度に、明姫は黙り込んだ。これでは話をしようにもできない。そんな明姫を無視して、女は男に微笑みかけた。
「若さま、これから汁飯(クッパ)を作ろうと思いますの。お口には合わないでしょうが、いつものようにご一緒にいかがですか?」
 ?いつものように?という部分だけが何故か強調されているような気がした。
 男は笑って首を振る。
「いや、今日は連れもいるし、これで失礼します」
「何だぁ、僕、宮女さまに宮殿のこととか、国王さまのこととか色々と訊こうと思ったのに」
 その無邪気な発言に、明姫はつい笑みを誘われる。
「マル君だったかしら。私は女官といっても、本当に下っ端の新米だから、国王さまのお顔なんて見たこともないし、恐らく、これからだって一度も見ることはないと思うわよ。ねえ、あなただって、国王殿下に直接、お話しできる機会は滅多にないでしょう?」
 いきなり話を振られて、男は愕いたらしい。眼を忙しなくまたたかせている。先刻は、自分が国王の信頼も厚い忠臣と言ったばかりなのに、やはり、あの言葉は適当な出任せか見栄を張ったに過ぎないのだろう。
「あ、ああ。まあ、確かに、そう言えば、そうだな」
 要領の得ない返事を返し、男はソル老人や女に軽く頭を下げた。
「それでは、これで失礼します」
「おじちゃん、今度は早く来てね」
「そうだな」
 男はマルを抱き上げ、頭を撫でてやる。
「絶対だよ、おじちゃんが来ないと、お母さん(オモニ)も物凄く淋しそうなんだ。だから、約束して、今度は早く来るって」
「これ、マルや。若さまを困らせては駄目よ」
 女が横から叱ると、?だってぇ?とマルは泣きべそ顔になった。
「判った、できるだけ約束を守れるように努力するよ」
 男はマルと同じ高さになり、指と指を絡めた。
「約束」
「げんまん、きっとだよ」
「ソルさん、朝夕はまだ冷えるから、風邪を引かないように気を付けて」
「ありがとうございます。若さまもお達者で」
 ソルは床の中から仏を拝むように手を合わせていた。
 女とマルが家の表まで出てくる。二人に見送られ、明姫と男は貧民街を後にした。四つ辻で振り返ると、マルがしきりに手を振っている。男も明姫も大きく手を振り返し、マルの美しい母親は丁寧に頭を下げた。
 辻を曲がったところで、母子の姿は見えなくなったというのに、明姫はまだ背中にあの美しい女の視線が突き刺さっているように思えた。
 あの女はこの男を好きなのだ。それはやはり、色事には疎く奥手とはいえ女の勘であったろうか。いや、同じ男を恋い慕う女同士だからこそ、相通じるものがあるのかもしれない。
 ほっそりとした肢体なのに服の上からも肉感的で何ともいわれない色香がある。おまけに容貌も面長で愁いのある顔立ちは後宮でもなかなか見かけないほどの美貌だ。同性の明姫ですらこれだけ心動くのだから、男なら、誰もが惹かれずにはいられないのではないか。
 さしずめ、隣を歩くこの男も―。
 しかしながら、マルが?おじちゃん?と呼んでいるこの若い男は何者なのだろう。ソル老人と男の会話には?ソンドン?という名前が出できたが、どうやら、ソンドンを仲立ちとして、彼等は繋がっているような節が会話の端々から窺えた。
 外に出てみると、春の陽はかなり傾いていた。だが、まだ帰らねばならない時間には間がある。明姫はもう少しだけ、この男と一緒にいたかった。
 しばらくは二人並んで無言で歩いた。沈黙が次第に息苦しくなり始めた頃、男が唐突に口を開いた。
「本当なら、そろそろ、そなたを宮殿に送ってゆかねばならない時間だろうが、不思議だ。何故か、そなたとこのままずっと一緒にいたいと願う自分がいる」
 どうやら、男も明姫と同じことを考えていたようである。明姫の心に小さな希望の灯りが灯った瞬間であった。
「時間はまだ大丈夫か?」
「尚宮さまには陽暮れまでに戻れば良いとお許しを頂いているから」
「では、もう一刻はあるな」
 男は空を見上げてから、?行こう?と足を速めた。
「今度はどこに行くの?」
「私の家だ」