何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
家というから、お屋敷なのかと内心焦ったのだけれど、かなり歩いて案内された先は先刻のあばらやよりは幾分マシといえるほどの小さな家であった。
男は家に入ると、少しの間、鼻をひくつかせていたかと思うと、顔をしかめた。急いで二つついている小さな窓を開けている。
「やはり、長らく訪れないと、ほこりっぽいな」
「ここに―住んでいるの?」
「いや」
男は短いながらも、きっぱりと否定した。
「ここは言ってみれば、隠れ家のようなものだ」
「隠れ家?」
明姫は眼を瞠った。まったく、この男の言動には愕かされっ放しだ。
「普段は殆ど使っていない。たまに一人になりたいときだけ、ここに来るのだ」
「一人になりたいって、自分のお屋敷では自由がないみたい」
両班のお坊ちゃんだから、使用人も多いのかもしれないが、一人になりたくてなれないということはないだろう。少し疑問に思ったが、それは明姫の立ち入るべき話ではない。
「まあ、自由などと呼べる代物なぞ確かにないな」
男はひっそりとこのときだけは淋しげな笑みを浮かべた。
「マルとの約束も守ってやれるかどうか、正直なところ判らない」
「それは、どういうこと?」
これもやはり立ち入りすぎた質問だと思ったけれど、訊かずにはいられない。それは好奇心というよりは、むしろ、この男のことが気になって仕方ないからだ。
「仕事が忙しくなって、色々としなければならないことが増えすぎた。もう、この隠れ家にもあまり来られないかもしれない」
男が疲れたように重い息を吐き、こめかみを手のひらで押さえた。初めて見せる憔悴した横顔に、明姫は思わず言っていた。
「少し横になったら、どうかしら。半刻も眠れば、少しは疲れも取れるでしょう」
男が口を開きかけ、逡巡するような顔を見せた。
「私なら、気にしないで。このまま待っても良いし、邪魔だというのなら、先に宮殿に戻っているから」
「邪魔などではない!」
叫ぶように言われ、明姫は眼を丸くした。
「いや、済まぬ。大きな声を出してしまった」
男は照れたように言い、躊躇いがちに続けた。
「頼みがある」
「なあに? 私でできることなら」
「膝枕を頼めるだろうか」
「―」
咄嗟に言葉を失った。名前すら知らない男に膝枕を貸す。それは極めて親密な間柄の男女にのみ許される行為ではないのだろうか。少なくとも、明姫はそう信じてきたのだが。
この男、見かけは至って真面目そうだが、やはり、女タラシの両班なのかと思うと、かなり失望した。
「やはり、駄目だよな。済まない。埒もないことを口にした」
そう言ったときの男の貌が酷く淋しげで。明姫はつい言ってしまった。
「ほんのしばらくなら、良いわ」
「本当か?」
男の貌が心底嬉しそうに輝くのを見ながら、やはり自分は甘い、男女のことなど何一つ知らない奥手と評されるだけはあるのだろうと思う。ろくに知りもしない男に膝枕をさせたなどと知ったら、崔尚宮にどれだけ怒られることだろう。
明姫が横座りになると、男が身体を横たえ、彼女の膝にそっと頭をのせた。
「重くないか?」
「大丈夫よ、心配しないで。頭だけなんだから」
安心させるように言うと、男がしみじみとした口調で言った。
「膝枕なんてして貰ったのは生まれて初めてだ」
「そうなの? 両班のお坊ちゃんもなかなか大変なのね、気苦労が多いみたい」
「いや、後宮で女官をしているそなたに比べたら、私の苦労など知れているだろうよ」
「そうとも言えないでしょうに。他人の苦労なんて、本当にその人の立場になってみないと案外、判らないものよ」
「つまり、それぞれに他人には到底、理解しがたい苦労があると?」
「そうね。きっと、そうなんだと思う。あなたにはあなたの、私には私の苦労っていうか悩みがきっとあるでしょう」
男はやがて眼を瞑り、静かな刻が流れた。眠っているものだとばかり思っていたから、話しかけられたときはかなり愕いた。
「やはり、そなたは不思議なおなごだな」
「どうして?」
男が眼をゆっくりと開く。切れ長の黒瞳は漆黒の闇よりも深く、じいっと見つめられると、その瞳の中に魂ごと絡め取られてしまいそうになる。明姫は思わず視線を彷徨わせた。
「可愛らしい外見、その愛らしい唇からは到底、信じがたいような難しきことを口にする」
「やっぱり、あなたも両班のお坊ちゃんね」
明姫は笑った。
「どうも、その口ぶりはあまり褒められているわけではないようだな」
「確かに」
明姫があっさりと頷くのを見、男は心外だという顔になった。
「何故、そのように思うのだ」
「あなた、口が上手すぎるわ。そうやって甘い科白を一体、何人の女に囁いたの?」
「馬鹿なことを申すな。私は息をするように偽りを口に出来る男ではない。そんな器用なことができるなら、とっくにそうしていた」
そうすれば、無用な諍いを生むこともなかった。
男が呟くのを聞き、明姫は肩を竦めた。
「あなたを巡って、さぞや大勢の女たちが恋の鞘当てをしたんでしょうね。その物言いだと」
いきなり男がガバと身を起こした。
「失礼なヤツだな。やはり、そなたも世の並の女と同じで、嫌みを言うのか」
「嫌み? 私がどうして、あなたの女関係のことであなたに嫌みを言わなきゃならないの? 私はあなたの恋人でも奥さんでもないのよ? 自惚れないで。あなたこそ、世の女はすべて自分に気があるんだって思い上がってるんじゃない?」
明姫は立ち上がった。
「失礼なヤツとは一緒にいたくないでしょ。私は先に戻ります」
出ていこうとしたその手を掴まれた。
「待てよ」
「何をするの?」
悲鳴じみた声を上げた明姫はハッとした。まるで棄てられようとする子犬のような瞳が無心に彼女を見つめていた。
「そんな眼で見ないでよ。まるで私があなたを苛めているようじゃない」
そして、その瞳は告げていた。行かないでくれと、ここに自分を一人、置き去りにしないでと。
こんなのは反則。明姫は内心、叫びたい想いでその場に踏みとどまった。こんに切なげなまなざしで見つめられて、到底、一人にしておけるはずがない。やはり、この男、根っからの天然に見えて、その実、凄腕の女タラシかも?
「悪かった。私が言い過ぎた」
恐らく人にかしずかれることに慣れ、謝罪などあまり自らしたことのない立場に生まれついた男なのだろう。
言い方は少しぎごちなく、語尾が震えていた。
本当に、何で私がこんな罪悪感を感じなきゃいけないんだろう。明姫は理不尽すぎるこの状況に半ば憤慨しつつ、再び腰を下ろす。
「判ったから、その手を放して。そんなに力を込めて掴まれたら、痛いわ」
手首を握る力の強さはやはり、男だ。それは幾らこの男が線が細くて軟弱そうに見えても、やはり力のある男―自分の抵抗などあっさりと封じ込めるだけの腕力を持つのだと示していた。
あまりに邪気がないし真面目そうだったから、さして疑いもせず、二人きりになることにも抵抗はなかった。だが、本当にこんな場所までついてきて、良かったのだろうか。今更ながらの不安と後悔がよぎる。
「ごめん」
男はまた謝り、慌てたように手を放した。
「その、また膝枕して貰っても良い?」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ