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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 滅多に手に入らない逸品が何故、このような露店に安値で並んでいるのか。それ自体がはや、店主たちの話が眉唾物だと語っているようなものだったけれど、この際、男は拘るつもりはないようである。
 が、安値とはいえ、このような市井の露店で売っている装飾品としては、けして安い方ではない。明姫は慌てた。
「いけません、見ず知らずの方から装飾品を買っていただくことはできませんから」
 男は二人の店主に過分の金を渡し、?つりは要らぬ?と鷹揚に言っている。見れば、今日は官服ではなく、浅黄色のパジチョゴリを身につけているが、その光沢のある生地は紛れもなく清国渡りの最高級の絹だろう。
 やはり、領議政の甥の友人というのは真実なのだ。彼自身も相当の上級両班の息子に違いない。
「そなたもつくづく変わった女だな。普通、女人は身を飾る品を贈られれば歓ぶものだろうに。なに、私がそなたに買ってやりたくなったのだ。迷惑かもしれないが、私に恥をかかせないで受け取ってくれ」
 そうまで言われて、突き返すのも大人げないように思え、明姫は渡された簪とノリゲを受け取るしかなかった。
 ややあって、男の笑いを含んだ声音が聞こえる。
「それに、私とそなたは見ず知らずの間柄ではないだろう?」
 ?え?と、明姫が眼を見開く。
 男が愉快そうに言った。
「宮殿の庭で一度、今日はこれで二度目になる。最早、見ず知らずとは言えまい」
「あ―」
 なるほど、少し強引に話を持って行き過ぎな感もあるが、確かに、この男と出逢うのはこれが初めてではない。
 明姫は手にした簪とノリゲを見つめた。小さな花を象った銀細工の簪は、花の部分が透明な青紫色の玉でできている。今、男が纏っている浅黄色を少し淡くしたような透き通った蒼色は、まるで都の夜明けの空を思わせた。小さな花は可憐で、桜草に形が似ている。
 ノリゲはまるでお揃いでしつらえたように、小さな花が何個か集まっていて、その下に白と淡い蒼をグラデーションに染めた長い房がついている。花の部分は店の主人たちが言っていた灰簾石という玉なのだろう。確かに珍しい聞いたことのない石の名前だ。
「素敵」
 思わず本音が呟きとなって洩れてしまったのを、傍らにいた男が聞き逃さないはずはない。
「そうか? 気に入ってくれたか?」
 男が屈託ない笑みを浮かべ、明姫を見ている。
「この花の色と形をひとめ見て、そなたにぴったりだと思ったのだ。まるでこの国の夜明けの空を思わせるような、清々しい明けの空の色が潔くて凜とした、そなたの印象にぴったりだと」
 眼と眼がぶつかり、明姫は慌てて視線を逸らした。何故か、初めて出逢ったときから、この男にじいっと見つめられると、落ち着かなくなる。
「そなたが気に入ってくれたのなら、良かった」
 男は満足した面持ちで頷いた。明姫は思わず口にしていた。
「ありがとうございます! 大切にします」
 まだ、礼も言ってなかった。買ってやりたくて買ったのだと言われて、そのまま受け取っていただけだったのだ。
 しかし、突然、大声で叫んだので、男の方は愕いたらしい。
 しばらく眼を瞠っていたが、やがて、弾けるように笑い出した。明姫の頬が紅く染まる。
 男の癖に、よく笑う人だ。もっとも、そういう男の笑顔をこうして見るのは嫌いではない。というより、悔しいけれど、もっと見てみたいと思うほど魅力的に思える。
「突然、耳許で大声を出されたんで、愕いた。うん、でも、そなたが気に入ってくれたのなら、私も嬉しいよ」
 男はまた笑うと、唐突に話題を変えた。
「これから行くところがあるんだけど、そなたは、どこか行く途中だったの?」
 いいえと首を振ると、男の顔が嬉しげに綻んだ。
「では、少し時間を取らせて申し訳ないが、一緒にどう?」
 別にこれといって見たい場所、行きたいところがあるわけではなかった。ただ都の町や市の賑わいを見ているだけで、心は晴れたし、知らない間に淀んでいた澱のようなモヤモヤしたものもなくなっていた。
 もっとも、それは町の賑わいや人々の躍動感溢れる生活ぶりのせいというよりは、予期せぬ場所でまたもや、この男に出逢ったお陰かもしれなかったけれど。

 戸惑いと、とめきめと

「私は別に大丈夫です」
 夕刻までに宮殿に戻れば良いのであって、まだ昼を回ったばかり。時間はたっぷりある。
 明姫の返事を聞いた男は更に嬉しそうに瞳を輝かせた。
「そう? なら、早速、行こうか」
 男が明姫を連れていったのは、目抜き通りを外れ、かなり歩いた町外れであった。この界隈になると、貧民街というのか、あばらやが結構目立つ。目抜き通りにはまだしも、生活に多少の余裕のある庶民が暮らしているけれど、この辺りには文字どおり、その日を暮らしてゆくのがやっとという有様の人々が生活している。
 屋根が傾いた家と呼ぶのも気の毒な住まいもある。男はそんな粗末な住居が並ぶ一角に迷わず脚を踏み入れた。
 数件並んだ小屋の一つの戸をそっと押し、中を窺うように見る。
「ソル爺さん、調子はどうですか?」
 この家の人とはかなり親しい間柄のようで、彼は気さくに声をかけながら中に入った。
「若さま(トルニム)」
 小屋の中は見かけよりは随分と整然として、人の住み家らしかった。がらんとした室内の片隅に薄い夜具が敷かれており、そこに痩せた老人が横たわっている。この老人がソル爺さんなのだろう。
「よう、こんなボロ家にお越し下さいましたのぅ。いつもいつも済まないことで」
 ソル爺さんが慌てて身を起こそうとするのを、男は駆け寄って止めた。
「ソルさん、無理は止めて下さい」
 自分よりはるかに身分の低いであろう老人に対して、男はきちんと敬語を使っている。ちゃんと目上の人への礼儀をわきまえて振るまっていた。
「ソンドンがいなくなったっていうのに、いつまでも、こんなところにお越し下さるとは、ありがたいことです」
 男はソルの枕辺に座り、微笑んでいる。
「何を水くさいことを言われるんです。ソンドンは私の親友でした。ソンドンがいなくなった今だからこそ、こうして伺うのです」
 彼は袖からおもむろに小さな包みを取り出した。
「いつもの薬です。よく煎じてから、呑ませて貰って下さい」
「本当に何と申し上げたら良いか、若さまには感謝の言葉を幾ら申し上げても足りない」
 ソル老人の皺深い眼に涙が滲んでいる。枯れ木のように痩せ衰えて、生きているのが不思議なくらいに見える。
 その時、明姫は部屋のもう一方の隅に置いてある小さな箪笥に気づいた。その上には粗末な素焼きの花瓶があり、ひと抱えもありそうな桜草が活けられている。
 その時、二日前の桜草は、ここに持ってくるためのものだったのだと悟った。ソル爺さんの見舞いに持参したのだろうか。殺風景なこの家の中が少しは明るく春めいて見えれば良いと―。
 が、その予想は次の瞬間、見事なまでに裏切られた。パタンと戸が閉まる音と共に?おじちゃん?と幼子の歓声が上がった。
 声につられるように振り向いた先には、二十代後半と思しき美しい女と彼女に手を引かれた幼児がいた。子どもは男の子で五歳くらいだろうか。
「おじちゃん、来てたんだね」