何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
かつて結ばれる前、明姫には一生涯守り抜くと誓ったのに、自分の誓いはそんなにも薄っぺらなものだった。女よりも恋よりも、民や王としての本来守るべき務めを優先した。そう言えば、聞こえは良い。事実、国王としてはけして間違ってはいなかったはずだ。
だが、一人の人間として、あの時自分が選んだ道は本当に正しかったのだろうか。たった一人の女すら守れない人間が、この国中の民を守れるのか。
あの時に幾度も自問自答した問いがまたもユンの中で疑問を投げかけてくる。
慈鎮に明姫が微笑みかけた時、何で片時でも嫉妬など感じてしまったのか。今の自分にには、考えるのももう許されないことであるというのに。
ユンはまだ明姫を愛している。自分でも情けないと想うくらい、彼女に恋していた。
仮にも一国の王がこんなに未練を抱くなんて、自分でも恥ずかしい。それでも、明姫を想う気持ちは抑えれず止められない。
明姫は相も変わらず熱心に祈りを捧げている。黄金の仏はただ静謐な表情を浮かべて、こちらを見下ろしているだけだ。これほどまでに愛している女の心中が判らないのに、仏が何を考えているかなど判りようもない。
ユンは半ば自嘲めいた想いで、自らの迷いを振り切るかのように首を振る。
「殿下、淑媛さまにお逢いにならないのですか?」
背後から維俊が問う。彼はずっと側で周囲に油断なく警戒の視線を走らせていたのだ。
「今更、どのような顔をして淑媛の前に出れば良いというのだ」
ユンは低い声で言い、肩を落とした。
「帰ろう」
ユンはもう背後を振り向きもせず、逃げるように観玉寺を後にした。
円いふっくらとした月が紫紺の空に浮かんでいる。まるで黄翡翠(イエロージェイド)を夜空にはめ込んだような月は清らかな光を惜しみなく地上に注いでいた。すべてのものが月光の雫に洗われ、しっとりと潤みを帯びている。濡れたような艶やかな光を帯びた山茶花が得も言われず艶めかしい。
明姫が本堂に籠もって祈りを捧げ始めてから、かれこれ一刻になろうとしている。この二年間、明姫が心に抱き続けた願いはただ一つしかない。
―どうか、あの方のお歩きになる道が平らかでありますように。あの方がこの世を遍く照らす聖君となられますように。
すべてはユン―彼女の最愛の男のためばかりの祈りであった。
ひとしきり祈りを捧げた後、明姫は小さな息をつき、眼前の御仏を仰いだ。黄金色(きんいろ)も美しい御仏を見る度に思う。
御仏は一体、何をお考えなのだろうか?
明姫には、この仏はいつも曖昧な笑みを浮かべているように見えてならない。曖昧というのは少し語弊があるかもしれない。もっとふさわしい表現をするとすれば、嬉しいとも哀しいとも判別のつかない表情とでも言えば良いのだろうか。
うっすらと微笑を湛えているのは間違いないのだけれど、歓びから来るものなのか、哀しみから来るものなのか判らない。あるときは慈しみ深い微笑みにも見えるし、またあるときは何ものかを哀れんでいるような哀しげな微笑みに見えないこともない。
いつだったか、その疑問を直接、慈慶和尚にぶつけてみたことがあった。慈慶和尚はこの観玉寺の住職で、四十代半ばくらい。眉の濃い体格の良い和尚だ。はっきりとした目鼻立ちには意思の強さが滲み出ている。しかし、和尚を慕って寺に来るふもとの村人や若い弟子たちには厳しくも優しい。
都から流罪という形でここに来た明姫にも隔てなく、気さくに接してくれる。明姫が本堂の御仏の表情について訊ねると、慈慶和尚はこんな話をしてくれた。
―仏は見る者の心を映し出すと言いますぞ。
初めは和尚の言葉の意味が今一つ理解できなかった。でも、次の瞬間、明姫は?あ?と小さな声を上げていた。
―つまり、私が哀しみに暮れているときは仏さまも哀しそうに見えるし、裏腹に歓びに浸っていれば仏さまも嬉しげに見えるということなのですね?
和尚は嬉しげに笑い、頷いた。
―流石は明姫さま、飲み込みも早い。そのとおりです。ゆえに、恐らく、明姫さまが御仏の微笑を哀しげなものと思うときには、ご自身が沈んでいらっしゃるのでしょうて。
今夜の御仏のお顔は? 明姫は立ち上がり、しげしげと黄金の巨大な仏像を見上げた。
その時。背後に人の気配を感じて、明姫は振り向いた。床に月明かりに照らし出された長い人影が伸びている。思わず悲鳴を上げそうになったところを後ろからそっと抱きすくめられた。
「なっ、何をするのですか! 人を呼びますよ」
気丈にも強い口調で窘めるように言うと、ふいに耳許でクスリという忍び笑いが聞こえた。
「相変わらず威勢が良いな」
「―」
全身に漲っていた緊張が少し解けた。この声はもしかして―。変わって入り込んできたたのは戸惑いと歓びだ。
「もう、私の顔どころか声まで忘れてしまったか?」
続けざまに流れ込んでくる懐かしい声音はあの男(ひと)のものだ。明姫は眼をまたたかせた。
「―ユン」
咄嗟に口を突いて出たのは本来呼ぶべき?殿下?ではなく、まだ知り合ったばかりの頃に呼んでいた彼の名前だった。
「明姫」
懐かしい温もりが彼女を包み込む。背後からユンの逞しい両腕に閉じ込められ、ユンの顔が髪に押し当てられるのが判った。
樹木の香りはユンが好んで使う香木のものだ。まるで森林に抱(いだ)かれているような深い匂いを明姫は大好きだったのだ。
「顔を、お顔を見せて下さい」
言い終わらない中に明姫の身体はくるりと回された。
「私の方こそ、よく顔を見せてくれ」
本堂の中に灯りは一切なかったが、満月のせいで十分な明るさがあった。ユンはそのなめらかな手触りを確かめるように明姫の頬を両手で包み込んだ。
「何とそなたは美しくなったのだろう。さては、しばらく逢わない間に、新しい恋人でもできたのか?」
この女に限って、そんなことはあり得ないと思いつつも、脳裏にあの慈鎮と呼ばれていた若い僧侶の顔が浮かんだ。
「まさか、そのような意地悪をおっしゃるところは殿下は少しもお変わりになっていないのですね」
明姫が軽く睨むと、ユンは軽やかな笑い声を上げた。
「外見は別人かと思うくらい大人びたのに、そなたも中身は変わらぬな」
「殿下」
明姫の桜色の唇が震えた。濃い影を落とす長い睫が細かく震え、大粒の涙が溢れる。冴え冴えと濡れた黒曜石の瞳が月光に露の滴を煌めかせていた。
「済まぬ。そなたには何度詫びても足りないくらいだ。この二年間、どれだけ辛い想いをさせたのだろうか。そなたが私の顔すら見たくないと思っていたとしても、私には言い訳さえ許されないのは判っている」
明姫の涙はユンの心を鋭くついたようであった。
明姫は微笑んで首を振る。
「これは夢なのですか? 本当に殿下なのですね」
恨むはずがない、顔を見たくないだなんて思うはずがない。逢わなかった長い日々をどうやって過ごしてきたのか、この男の貌を見てしまった今は思い出せないほどだ。
「ずっとお逢いしたいと思っていました。たとえ夢でも良いから、殿下にお逢いできれば、どんなに幸せかと。でも、殿下は夢にさえ一度も現れて下さらなかった。だから、もう二度とお逢いすることもないのだろうと諦めていました」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ