何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
僧が明姫を見つめる熱い視線には明らかに若い女への憧憬と好意が含まれていたが、明姫の方はどうやら気づいていないようだ。
あれほど女らしく艶やかな色気を放つようになっても、どうやら中身は二年前の無垢な少女のままらしい。自分がどれほど魅力的で、どれだけ男心を惑わすかを考えてみたこともない。
もっとも、そこが明姫の最大の魅力なのだとユンは思う。自分の美貌を知り尽くしている女ほど鼻持ちならないものはない。また、男の眼を必要以上に意識してふるまう女もユンは苦手だ。実のところ、後宮に美しい女はたくさんいるが、皆が皆、そういったいささか自意識過剰気味な女ばかりで閉口している。
二年も逢わないでいたのに、明姫のそういった明姫らしい部分は少しも変わっていない。ユンはそれが嬉しかった。
「はい、川まで行っていました」
明姫はごく自然な態度で若い僧に接している。かつては王の妃であったと感じさせるような素振りは何一つない。いかにも彼女らしい謙虚さだと好感は持てるが、ユンにはいささか淋しくもあった。
今の明姫を見て、誰がかつて国王の寵愛を一身に集めた側室だと思うだろう?
「淑媛さまおん自らがお洗濯など。そのようなことは下働きの者が致しますのに」
僧は真顔で首を振るが、明姫は相変わらず魅力的な笑顔を僧に向けている。
―明姫、私以外の男にそんな笑顔を見せては駄目だ。
思わず叫びたい想いを抑えているユンの耳を明姫の可愛らしい声が打った。ユンは現(うつつ)に戻り、物陰から息を殺して二人のやりとりを見守る。
「私はもう、国王(チユサン)殿下(チヨナー)の側室でもお妃でもありません。ここに来たときから、ただの平民となりました。そして、ここに置いて戴いているのは、ひとえにご住職さまや皆さまのご親切によるものですもの。私にできることがあるのなら精一杯やるのが皆さまのご恩に報いることになると思っています」
―私はもう、国王殿下の側室でもお妃でもありません。
そのさりげないひとことは、ユンの心を鋭く射貫いた。
確かに明姫の言うとおりだった。明姫は今もそのか細い腕に籠を抱えている。洗濯したばかりの衣類をそれこそ山のように乗せて。
国王の妃であれば、そんなことをする必要はない。この二年間、明姫は毎日、他人の衣類を洗濯し、それだけでなく様々な雑用をこなしてきたに違いない。
そして、そういう境遇に彼女を置いたのは、ユン自身なのだ。今更、自分がのこのこと彼女に逢いにきたからといって、彼女が歓ぶとは思えない。
「いかにも淑媛さまらしいですね。ですが、山頂の冬は厳しく、川水は冷たい。くれぐれもご無理はなさいませんように」
「はい、慈鎮さま」
慈鎮というのは若い僧の名前なのだろう。慈鎮もまたにっこりと笑みを返し、一礼してから僧坊の方へと歩いていく。
明姫もまた小さく頭を下げ、慈鎮を見送っている。
ユンは誘(いざな)われるかのように明姫の後を少し離れて付け始めた。
どこに行くのかと思っていたら、明姫は真っすぐ本堂に向かっている。正面の突き当たりには威風堂々たる建物が建っていた。緑と朱、蒼を基調とした色彩も鮮やかな建物が冬の陽射しに包まれ、穏やかに輝いている。入り口の傍らに、濃いピンクの山茶花が一本、たくさんの花をつけて植わっていた。
ここに来るまでに通った山道沿いにもそこここに見られたが、どうやら山全体に山茶花が群れ咲いている場所が多いらしい。
明姫は本堂脇の入り口から中に入ったようだ。
ユンは数歩離れた位置を保ったまま、そうっと後をついてゆく。その後ろに維俊が続いた。たった今、明姫が消えたばかりの入り口まで来てから、扉を細く開けて中を覗き込む。
今日のユンは浅黄色のパジチョゴリに鐔広の帽子を目深に被っている。顎紐のように垂れているのは、深い蒼瑪瑙を連ねたものだ。明らかに仕立ての良い衣服や自ずと備わった気品ある挙措はひとめで貴人だと判る。
しかし、まさか宮殿の奥深くにいるはずの国王その人がこんな遠く離れた山寺にいるとは誰も想像がつくまい。大方は上流両班の若さまがやって来たくらいにしか思わない。
ユンは更に帽子を引き下げ、顔を隠してから本堂内部を覗いた。
中央部には大きな祭壇が設えられ、その向こうに金色の仏が三体並んでいる。仏教は国教ではなく、むしろ朝鮮では仏は神よりも下位にあると見なされている。
しかし、実のところ、国王であるユン自身は、仏教を軽く見ているわけでもなく、宗教というものは人間と同様、皆が等しい扱いを受けるべきだと考えている。そんなことを母大妃に向かって言えば
―国王たるそなたが何という怖ろしいことをおっしゃるのですか!
と、柳眉を逆立てて怒るだろうけれど。
かといって、ユンは特に自分が信心深い人間だと思ったこともない。
明姫は彼が見つめていることも知らず、床に端座して礼拝を繰り返している。立ち上がって合掌し一礼し、また座って両手のひらを上に向け頭を床にこすりつける。要するに五体投地を繰り返しているのだ。
自分が特に信心深いわけではないのと同じく、以前の明姫は何か一つの宗教に傾倒していたということはなかった。もちろん控えめで賢明な彼女のことゆえ、宗教を軽んじていたとは思えないが、少なくとも明姫が祈っている姿などは一度も見た憶えがない。
こうして都から遠く離れた山寺で一心に祈りを捧げる彼女を見るのは、何か明姫でありながら明姫ではない―まったくの別人を見ているかのような不思議な気持ちだった。
水晶の数珠を手に掛け、何をそんなに賢明に祈ることがあるのだろうか。判らない、明姫の考えていること、気持ちが何一つ判らなかった。そして、それが酷くもどかしい。
かつては誰よりも身近にいて心の通じ合った恋人であり妻である女。その女が今はとても遠く感じられる。
先刻の明姫の言葉がふいに耳奥で甦った。
―私はもう、国王殿下の側室でもお妃でもありません。
確かに明姫はそう言った。あれは、聞き違えようのない事実だ。もしかしたら、明姫にとって、自分はもうとっくに過去の男になってしまったのかもしれない。
だからといって、明姫を責められるものではない。自分をこんな僻地の山寺へと追いやり、かつては下女がしていた雑用をするような境遇を与えたのは王であるユンなのだから。彼女にしてみれば、顔どころか名前すら思い出したくない厭わしい人間だと思われていても仕方ない。
先刻、明姫が慈鎮という若い僧に微笑みかけた時、腹立たしさを感じた。むろん、その中には嫉妬めいた感情も混じっていた。だが。
最早、王たる自分は明姫にそんな気持ちを抱く資格すら持っていない。それほどまでに明姫を大切だと思うなら、玉座も何もかも棄てて、明姫を選び取れば良かった。現実には到底できないことではあったが、死ぬほどの覚悟を持って、二人で手に手を取り宮殿を出れば良かったのだ。
しかし、ユンは感情よりも理性で決断を下した。一人の女を恋うる男としてではなく、一国を統べる国王としての模範的な道を選択したのだ。それが間違いであったとは今でも思わない。女のために王位を放り出すなんて、多分、自分はいつまで経っても、できないだろう。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ