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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 それなら、女官の中に若い王の心を射止める娘がいるかといえば、それもない。寵愛していた金淑媛を失って以来、王の心は冬の氷のように凍え、瞳には何も映らなくなった。
 その不思議な夢を見たのは、そんな味気ない独り寝の最中のことだった。ユンはただ一人でどこか広い野原に立っていた。
 そこがどこなのかは判らず、ただ周囲は白い霧が取り巻いているだけだ。いつも側にいる黄内官もむろんおらず、ユンは声を限りに呼んだ。
―誰か、いないのか?
 しかし、霧は一向に晴れず、ますます濃く深く視界を白く染め上げていく。
 焦燥に駆られていたユンが眼を瞠った。遠くから泣き声が聞こえてくる。
 まるですすりなくような声は明らかに女のものだ。じっと耳を傾けていると、心が哀しみの色に染まってしまうほどに切なくて哀しげな声には確かに聞き憶えがあった。
―明姫!? その声は明姫なのか?
 ユンは声を高くしたが、泣き声は途絶えることなく、返事もなかった。頼りなげでいながら、切々と魂を根底から揺さぶるような泣き声はずっと続いている。
 聞いている彼自身もまた泣き声の主の哀しみを共有しているような心もちになった。
 明姫が泣いている!
 夢はそこで途切れ、さしたる進展はなかった。同じ夢を見ることは二度となかったけれど、その夜の哀切な泣き声はユンの魂を絡め取った。
 そういえば、と、ユンは今更ながらに思い出したものだ。明姫は怖ろしい夢を見ては、うなされていた。明姫の父は捕盗庁(ポトチヨン)の副官であり、かつてはユンの父王の信頼も厚かったという。それが左議政(今の領議政)の悪事を王命により内密に探っていたところ、左議政側に気づかれ消された。
 家族から使用人まで皆殺しにされ、屋敷ごと火事に見せかけてすべて灼き尽くすという残酷極まりないものだった。明姫と老齢の執事だけが生命からがら逃げ出し、一命を得たのだ。
 明姫の両親や幼い弟を殺し、すべてを奪った左議政はユンの母方の伯父である。明姫はいまだにそのときの火事の夢をしょっちゅう見るのだ。紅蓮の焔が追いかけてくるのだと、明姫はよく語っていた。
 二人は毎夜のように共寝していたから、ユンは誰よりそのことをよく知っている。うなされ飛び起きた明姫を抱きしめ幼子のようにあやしてやったこともあるし、怯えて縋り付く彼女を腕に抱き、添い寝したこともある。
 居場所が宮殿から都より離れた山寺に変わったところで、その悪夢を見なくなるわけでもなかろう。むしろ、境遇の激変が余計に彼女を追いつめ悪しき夢を見させることだって考えられる。
 夢から覚めたばかりのユンはそのまま宮殿を飛び出しそうな勢いであったらしい。寝所の外に控えていた黄内官が慌てて入ってきた。
―殿下、どうか落ち着ついて下さいませ。
 床の上に身を起こしたユンはうわごとのように?明姫?と呟いていた。
―爺や、明姫が泣いている。とても哀しげに泣いているんだ。
 その時、当事者であるユンは気づかなかったが、黄内官は一瞬、ついに最愛の女性と引き離された王が狂ったのかと危ぶんだほどだった。
 元々、ユンは明姫を熱愛していた。しかし、周囲との軋轢に屈した形で、明姫を心ならずも廃妃とし宮殿を追放したのだ。この二年間、ひたすら明姫だけを想い孤独に堪えてきた王の心中を知る者は黄内官だけだ。
―今すぐに行ってやらなくては。
 夜着のまま出ていこうとする王はやはり、尋常とは思えなかった。黄内官は同じく廊下に控えていた甥である若い宦官を呼んだ。
 既に六十近い自分では、若い王を押さえるのは体力的に無理がある。ゆえに、彼は甥の黄維俊を呼び、王を取り押さえさせた。
―殿下、どうかお気をしっかりとお持ちになって下さい。
 代わる代わる声をかけている中に、漸く王も落ち着いてきて、いつもの彼らしい冷静さを取り戻したのだった。
 この夜を境に、ユンはどうしても一度、勧玉寺に行くと言い出してきかなくなった。むろん、黄内官は諫めたものの、あの夜の王の錯乱状態を思うにつけ、このまま王を止めるのが果たして本当に良いのかどうかも判断がつきかねた。
 老齢の身では都から離れた観玉寺まで一日で往復するのは難しい。ゆえに、甥の維俊だけを伴につけて王の観玉寺行きを認めたのである。
 観玉寺は都漢陽(ハニャン)から遠い。とはいっても、馬を使えば一日で行って帰られない距離ではない。なので、維俊にはくれぐれも王の安全と人眼につかないことを言い含め、必ず一日の中に宮殿に戻ってくるようにと伝えた。
 王自らの決断で宮殿を追放した廃妃にいまだ恋慕の情を抱き、あまつさえ宮殿を抜け出して逢いにいったと知れれば、大事になる。王の立場は今、不安定だ。生まれながらの王として育ち、父王の後を受けて幼くして王位についたものの、御子の一人もない。
 古くからの大臣たちの意見ばかりでなく、若い臣下たちの意見も積極的に入れ、若い有能な人材であれば家柄を問わず登用する。飢饉が起これば、すみやかに国庫を開いて窮民に粥を炊き出してふるまったり、国への貢納品を少なくするなど、民への負担の削減にも務めている。
 既にかなり前から聖君(ソングン)としての評判はあり、最近では?太祖(テージヨ)大王の再来?とまで民は囁き、敬い崇めているとか。賢王としての評判は最早不動の感はあるけれど、現実の彼―イ・ユンはまだ二十五歳の脆く傷つきやすい若者の一面を持っている。
 王もまた王であると共に、一人の男であり人間なのだ。王が個人的感情に惑わされたり、それを優先させることは一般的には禁忌とされているが、先代の王から今の若い国王二代に渡って仕えてきた黄内官は、王たる人の孤独をずっと間近に見てきた。
 両親からの愛を欲しても得られず、常に広大な宮殿で孤独だった年若い王。その王の心を初めて大らかな愛で包み込み、孤独を癒した娘が現れたのだ。それが先頃、宮殿を追われた金淑媛であった。
 黄内官は金淑媛が無実であることを知っている。現に彼女が無実であるという証拠を名医と呼ばれる男が廷臣たちの前で証明して見せたのだ。淑媛が中殿毒殺に拘わっていないことは明らかであるにも拘わらず、領議政は卑怯にも廷臣たちを動かし、王が淑媛を宮廷から追放せざるを得ないように仕向けた。
 王の心を理解し、孤独を癒せるのは淑媛しかいない。黄内官は早くからそれを認識していた。だからこそ、廃妃に逢いにゆくといってきかない王を止めることもなく、甥をつけて明姫の許に行かせたのだ。
 今、ユンは眼を見開いて、たった一人の想い人を見つめていた。こんな都から離れた山寺にあっても、明姫の匂うような美貌は変わらない。いや、以前以上にみずみずしく艶やかに開いた彼だけの花。
 思わずふらふらと明姫の前に出ようとしたその時、明姫が微笑んだ。花がひらくような眩しい笑顔は自分ではなく、向こうから歩いてくる若い僧に向けられている。
「淑媛さま(マーマ)、お出かけでしたか?」
 僧は二十歳前後、見たところ、明姫とほぼ同じ歳ほどであろう。美男というわけではないが、穏やかな表情にはその男が生まれ持つ誠実な人柄がよく表れている。