何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
それでも、膝に乗せて優しく頭を撫でてくれた手のひらの温もりや、慈愛に満ちた温かなまなざしだけは今も憶えていた。幼いときからずっと側にいた黄内官や父の側室であった孔淑媛を除けば、たった一人、幼いユンを心から可愛がってくれた祖母であった。
「良いのだ。そなたが私の側近く仕えるようになってから、私はまだお祖母さまの墓参には一度も訪れていない。そなたが知らぬのも致し方のないことだ」
ユンは笑いをおさめ、少し緊張した面持ちで言った。
「維俊、ここに淑媛(スクウォン)―明姫(ミョンヒ)がいるのだな?」
今更な質問だが、訊ねずにはいられなかった。
ずっと明姫だけを守り抜くと誓ってから一年も経たない中の別離。その別離からも既に二年の年月を経ている。
歳月は人の気持ちを変える。もちろん、明姫を愛しいと思うユン自身の心が変わることはあり得ない。しかし、当の明姫の方はどうなのだろう。ずっと側に居て守ると約束しておきながら、結局は明姫を見捨てることになってしまったのだ。
「はい。金淑媛(キムスクウォン)さまは間違いなくここ観玉寺におられます」
維俊は若い王を励ますかのように確信に満ちた口調で言った。
「行こう」
ユンは小さな声で言い、足早に歩き出した。維俊が慌ててその後を追う。
山門をくぐると、直に広大な敷地に点在する諸伽藍が見えた。本堂に向かおうとしたその時、ユンはハッとした。
「殿下、まずは慈慶和尚にお会いしてはいかがでしょう」
維俊が言うのに、ユンは?シッ?と人差し指を唇に当てた。ユンは愕く維俊を引っ張るようにして近くの小さな建物の影に身を潜めた。
「殿下―」
なおも言いかけた維俊が息を呑んだ。二人からさほど離れていない数歩先を一人の娘が横切ってゆく。艶やかな漆黒の髪を後頭部で結い、地味な木製の簪を挿し、粗末な木綿のチマチョゴリを纏っている。衣服はきちんと手入れの行き届いた清潔なもので、質素ではあるが、控えめな薄紅色のチマは若い彼女にはよく似合っていた。
「明姫―」
ユンの呟きにはあらゆる感情がこめられていた。二年の間、よくも顔を見ないで耐えられたものだと思わずにはいられない。彼の今なお焦がれて止まない想い人は、この二年で更に美しく臈長けた女人へと成長していた。
彼が最後に見た明姫は、まだふっくらとした丸みの残る頬に少女のあどけなさを残していた。だが、今の彼女はどうだろう!
整った目鼻立ちはそのままに、顔つき、身体つき、すべてがもう二年前の少女のものではなかった。十九歳というまさに花なら盛りの娘らしさ、成熟した女の色香をしっとりと漂わせている。
このような山頂に追われながらも、彼の花は美しく開いたのだ。今すぐにでも姿を現して明姫を抱きしめてやりたい。そんな衝動に駆られたものの、ユンは懸命に堪えた。
第一、二年前に彼女を宮殿から追放したのは他ならぬユン自身なのだ。すべての事情を慮ってのやむを得ない処置だったといえるものの、明姫が彼を恨んでいたとしても仕方ない。
二年前、国王直宗ことイ・ユンは寵妃金淑媛を廃して庶人とし、この寺に追放した。妃としての位階もすべて剥奪され、明姫は勧玉寺に来たのだ。
その少し前、明姫が王妃毒殺未遂の疑いをかけられ、義禁府(ウィグムプ)に囚われの身となった。結局、容疑は晴れたものの、王妃毒殺の疑いをかけられた不届き者をそのまま宮殿に留め置くべきではないとの臣下たちの声が多く、ユンは泣く泣く明姫を手放した。
最後に明姫の許を訪れた夜をユンは今も忘れない。どうしても明姫への処遇を言い出せずにいた彼の胸中をいちはやく察したのは明姫であった。
聡く勘の良い彼女はまた優しく思慮深かった。ユンの沈んだ顔からすべてを理解し、自ら言ったのだ。
―殿下は私にお別れをおっしゃりに来て下さったのですね。
その後、頬を染めながら
―抱いて下さい。
とせがんできた明姫は殊の外、愛らしかった。ユンはそのひとことで理性のたがが外れた。もちろん、その夜が最後という特別な想いもあったには違いない。明姫をこれ以上はないほど烈しく求め、狂おしくその身体を貪った。
肉体は満ち足りても、心は少しも満たされなかった。幾度抱いても、抱き殺してしまっても―恐らく、あの夜の彼の心が満足することはなかったはずだ。
あの時、身体を重ねた明姫は確かにユンを恨んではいなかった。だが、二年という年月はあまりにも長い。こんな山奥でたった一人、不自由な生活に耐えてきた明姫にとって、自分は無情な男でしかないだろう。また、そのように思われて当然だともいえる。
この二年間、ユンは明姫に一度たりとも手紙を出さなかったし、贈り物を届けてやることもなかった。王の怒りに触れて宮殿を追放されたことになっている元妃に対して、ユンができることは何もなかった。
それが十日ほど前のことだ。不思議な夢を見た。明姫がいなくなってからというもの、ユンは新しい妃を迎えていない。中殿とは相変わらずまったく寝所を共にはしておらず、後から迎えた二人の側室たちとも一切交わりはなかった。
ちなみに、二年前にユンの第一子を上げた?昭容(ジヨソヨン)は半年前、温嬪(オンビン)の官職名と共に正一品嬪(ひん)の位階を与えられた。ほぼ同時に昭儀(ソイ)であった尹氏(ユンし)もまた賢嬪(キヨンビン)として同じ位階を賜った。
嬪とは後宮における側室としての位階を示し、中殿である王妃に次ぐ最高位である。温嬪の生んだ第一王女は不幸にして死産し、哀しみのあまり、温嬪は狂ってしまった。仮にも国王のただ一人の御子を生み奉った彼女をそのままにもしておけない。
今、温嬪は難産の後の不調も漸く癒え、以前と同じような生活ができるまでに回復した。ユンとしては大妃(テービ)が提示した条件―明姫を側室として迎えたいがために、愛してもいない温嬪を義務的に抱いた。
そのたった一度の契りで温嬪は懐妊したのだ。ユンには温嬪への負い目があった。それはけして愛情ではなかったけれど、自分の子を産み、更には子どもを失い正気を手放した女を捨て置くことはできない。
心を傾けはできないけれど、せめてもの償いにと名医と呼ばれる医師を付け、生活に何一つ不自由のないように取りはからってやった。また、亡くなったとはいえ、王女の生母であるという功績を考えて、側室としては最高位の嬪としたのだ。
更に温嬪を嬪に任命した以上、領議政(ヨンイジョン)の養女尹昭儀をそのままにしておくこともできず、やむなく同じように賢嬪として遇することになった。
まだ二十四歳の国王の後宮は淋しいものだった。正室一人に側室二人はいるが、王が妻妾と夜を過ごすことはなく、ユンはいつも大殿(テージヨン)でたった一人で寝むのが日課になっている。従って新たに王の御子が生まれるはずもなく、このままでは王位を継ぐべき世子(セジヤ)さまのご誕生も危ぶまれるとの声が臣下たちからも上がっている。
もちろん、領議政ペク・ヨンスを初め、たくさんの臣下たちは己が娘を入内させ、何とか王の心を得ようと試みたが、肝心の王が新しい妃を迎えるつもりはないと断固として突っぱねた。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ