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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 明姫はなるべく人眼に触れないよう、昼間は与えられた室で写経などをして過ごした。時には寺男の妻を手伝い、料理をしたり繕い物もする。たまに境内で若い僧にすれ違うと、彼等は一様に美しく若い娘に眩しげな一瞥をくれた。
 ここまで来て色恋沙汰で苦しみたくない。明姫はできるだけ、彼等との接触は避けている。
 小高い山の頂上に位置するこの寺には、都から時折両班の奥方が娘と共に供養に来たり、ふもとの村人たちがお参りにきたりする。それ以外は訪れる者とていない静かな寺である。
 今夜だけは祭りとあって、ふもとの村人たちが次々に参詣に来ては帰っていった。夜もかなり更けた今は、流石に詣でてくる人はいない。
 明姫は軒先に吊られた灯籠を眺め上げる。
 この場所が御仏に仕える僧侶たちの住まう寺であることを考えれば不謹慎かもしれないが、何とも艶めかしい眺めだ。どこまでも果てなく続く漆黒の闇の中、灯籠の焔がちらちらと風に揺れ、地面に揺れる影を落としている。
 明姫は伸び上がるようにして、この灯籠の一つを取った。携帯していた小さな硯と筆を出し、さらさらと灯籠に文字を書く。

  冬月夜深深
  君今何処眠
  我亦君恋恋
  君行道安念

 ?冬の月夜はどこまでも深く
  こんな夜 今 あなたはどこで眠るのか
  私もまた あなたをこの上なく恋しく想っている
  あなたの行く道が安からんことを祈りな がら?

 すべてを書き付けると、明姫はその灯籠を境内の片隅にある池に浮かべた。薄桃色の絹に記された流麗な手蹟は、遠く離れた彼女の想い人に宛てた詩だ。
 今宵、供養に来た人は好きな灯籠を一つ選び、願い事を書いて池に浮かべる。そうすれば、御仏が必ず願いを聞き入れて下さるという言い伝えがある。
 あからさまに願い事を書けないので、漢詩に託して書いたのだ。
 明姫は今、木綿の簡素なチマチョゴリが普段着だ。自分はもう国王の側室でもなければ、女官でもない。王の怒りに触れ寵愛を失って廃された元妃だ。そんな身が昔のように豪奢な衣服を着られるはずもない。
 しかし、元々、華やかな衣装や宝飾品には興味がないため、今の暮らしもさほど堪えられないことはなかった。
 明姫は上衣に結んだノリゲをそっと手に取った。懐かしい故郷漢陽の上にひろがる夜明けの空を閉じ込めたような美しい紫色の玉石は灰簾石(タンザナイト)というのだとユンが教えてくれた。
 宮殿を出るに当たり、何も持ち出すことはしなかったけれど、唯一持ってきたのがこのノリゲだった。対になった簪の方は彼女自身の心としてユンの傍に置いてきた。
 明姫は今はもうユンとの想い出の形見となってしまったノリゲを握りしめる。
 殿下、明姫はどこにおりましても、遠くから殿下のお幸せを祈っております。
 煌々と輝く月に向かって、呼びかける。あの月にユンがいるはずもないが、もしかしたら、今、この同じ空を彼も見ているかもしれなかった。今、自分が見上げている空は遠く都まで続いている。
 そう思うことで、孤独に挫けそうになる弱い心を支えられる。
 手を伸ばせば触れそうなほど近くにある月を明姫は飽きもせずに眺め続ける。
 清かな月明かりが池の面を照らし、時々、立つ小さな波が金銀に染まっている。
 彼女がたった一人の男に向けて想いを綴った灯籠は、明姫の想いを乗せて池の面をゆらゆらといつまでも漂っていた。
(了)







第三話


  観玉寺の廃妃









 再会

 幾重にも折れ曲がった山道を馬でゆっくりと上りながら、ユンは頭上を振り仰ぐ。冬なお青々とした緑の葉を茂らせる樹々がまるで天蓋のように空を覆い、視界を遮っている。
 何気なく視線を動かしたユンは、ふいに眼を射た鮮やかな冬の花に眩しげに眼を細めた。周囲には群生する山茶花が各所に見られる。
―このような人とて滅多と通りそうにもない山奥に明姫はいるのだな。
 そう思うと、愛する女一人をついに守り切れなかった自分の不甲斐なさが今更ながらに恨めしい。今、頭上に広がっているであろう薄青い冬の空は生い茂る葉に隠されて見えず、ユンは束の間憶えた閉塞感に息をついた。
 そのまま物想いに耽りそうになってしまうのに、背後から控えめに声がかけられる。
「殿下(チヨナー)、そろそろ急ぎませぬと、今日中に都に戻ることができませぬ」
 いつしか馬を止めていたユンはハッと現(うつつ)に戻された。
「そなたの申すとおりだな。よし、ここからは先を急ごう」
 ユンは想いを振り切るように頷き、馬の横腹に軽く蹴りを入れる。逞しい体?の鹿毛はひと声いななくや、彼を乗せて、?疾風(はやて)?という名のごとく勢いよく走り始めた。
 ユンの後をまだ若い内官がやはりこれも馬で付き従う。都の宮殿にあっては常に国王ユンに影のように寄り添い、衷心から仕えてくれる大殿(テージヨン)内官(ネーガン)黄孫維の息子維俊である。
 もっとも、宦官である内官は妻帯はしても、子をなせない。ゆえに、養嗣子を迎えて家門を継がせることになる。黄内官もその例に洩れず、弟の子、即ち甥を養子として迎えていた。
 息子の維俊もまた、父親に負けず劣らずの忠臣で、ユンにまめやかに仕えている。既に六十歳近い黄内官はユンにとって祖父のようなものだが、息子の方は二十九歳と比較的歳も近く、臣下という枠を越えて友人に対するような気安さがあった。
 それから更に馬を駆ること、半刻余りで、漸く急な山道がなだらかな坂に変わる。ユンと黄維俊は流石に都からの長い道中に疲れを滲ませている馬を宥めながら、最後のひと走りを始めた。
 四半刻も経たない中に、緩やかな傾斜は突然終わりになった。忽然と眼前に出現した山門は大きく、流石に宮殿の偉容には比べるべくもないけれど、人里離れた山頂にあるとは信じられないほどだ。
「久しぶりに訪れたが、これほどに広大な寺であったかな」
 ユンは呟き、馬からひらりと身軽に降り立つ。手近な樹に疾風を繋ぎ、後に続いた黄維俊がそれに倣った。
「殿下は勧玉寺にお越しになったことがございましたか?」
 維俊が意外そうに訊ねると、ユンは頷いた。
「この寺の近くに仁誠(ニンソン)皇太后さまの陵墓があるのをそなたは知らないのか?」
 その言葉に、維俊がハッとしたような表情になり、深く頭を垂れた。
「申し訳ございません。そういえば、先々代の王妃さまのお墓がこの辺りにあるとお聞きしたことがあります」
 仁誠王后は先々代国王の妃、つまりユンの祖母に当たる女性である。女官出身で側室となり、国王の寵愛も厚く、ついには中殿(チュンジョン)にまで上り詰めた稀有な人であった。聡明にして、その美貌は庭園に咲き誇る芙蓉のごとしと謳われた。
 ユンの記憶にある祖母は、もう既に六十を超えている。ユンが四歳の冬には亡くなってしまったので、記憶も朧でごく断片的なものしか残っていない。