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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 その朝、ユンは大殿の執務机に向かっていた。今日も大殿前ではご苦労なことに、廷臣たちが揃い、明姫の処分を迫っている。
 よくもあれだけ根気が続くものよ。ユンはほろ苦く笑った。つまりは、それだけ金淑媛は皆から良くは思われていないということになる。
 何故なのだろう。あのように心優しく賢い娘は探しても滅多といない。なのに、何故、誰もが明姫を妖婦だと決めつけるのか。
 それはやはり、黄内官の指摘したように、国王である彼が明姫だけを一途に求め愛しすぎたからだろうか。彼の烈しい愛が明姫をのっぴきなぬ立場に追い込んだのか。
 ユンは固く眼を閉じた。自分の心を―明姫への想いを意思の力を総動員して封じ込める。
 それから眼を開き、傍らの玉爾を手に取ると、眼前の書状に捺した。
「―」
 ユンの瞳からは涙がとめどなく溢れていた。
 この国に長く続いた王朝、歴代の王の中で、自分ほど不甲斐ない王はいないだろう。王という立場にありながら、想い人、たった一人の女すら守れない情けない男だ。
 明姫、済まぬ。不甲斐ない私を許してくれ。ユンは最愛の女に心で詫びながら、涙を流して、それが王命であることを示す書状に王印を捺したのだった。
 ユンは玉爾を投げるように乱暴に戻し、袖から小さな布きれを出した。義禁府で明姫が彼に涙を拭くようにと渡してくれた―彼女自身のチョゴリの袖を裂いたものだ。
「―くっ」
 ユンはその布を頬に押し当てていたが、とうとう堪え切れずに嗚咽が洩れた。
「黄内官」
 呼べば、忠実な内官はすぐに扉を開けて入ってきた。ユンの頬が涙に濡れているのを認め、黄内官は烈しく動揺した。
「殿下、大丈夫ですか?」
「すぐに都承旨と領議政を呼んでくれ」
「しかし、もう少し後になさった方がよろしいのではありませんか」
「いいや、気が変わらない中に済ませたいのだ」
「承知しました」
 黄内官は一礼すると、都承旨を呼びに出ていった。
 ほどなく都承旨と領議政ペク・ヨンスが揃って大殿を訪れた。
「玉爾は既に捺してある。そなたはこれより私が申すことを一言一句書き漏らさぬように」
「はい」
 都承旨が慇懃に頭を下げた。
「金淑媛は王の側室という立場にありながら、中殿毒殺未遂の容疑者となるという失態を犯した。たといその罪が晴れたとしても、嫌疑をかけられたのは金淑媛の不徳の致すところである。本来であれば、遠隔地へ流刑となるべきところではあるが、ただ今、懐妊中の身であることを慮り、情状酌量の上、近郊の寺へその身柄を預けるものとする。なお、金淑媛に与えた妃としての位階は剥奪され、廃妃となり庶人の身分をここに与えるものとする」
 つまり、廃されて妃の身分・待遇を剥奪され、平民に降格されるという意味であった。
 都承旨がすべての文言を書き取り、ユンに手渡す。ユンはもう確かめることもせず、そのまま領議政に差し出した。
「これでよろしいですか、伯父上」
 敢えて領議政と呼ばず、伯父と呼んだのがせめてもの抵抗なのは哀しかった。
「すべてが思惑どおりになり、伯父上も母上もさぞご満足でしょう」
 だが、老獪な領議政は畏まって頭を下げただけだ。
「我ら廷臣一同の意をおくみ取り頂き、臣領議政ペク・ヨンス、恐悦至極に存じます」
 ユンは都承旨に先に退出するように命じた。できれば、他の者に身内同士の諍いは見せたくない。
 領議政と二人だけになったところで、皮肉げな声で言う。
「すべてが思いどおりになりましたね」
 と、領議政が何を思ったか、声を立てて笑った。
「何がおかしいのですか。金淑媛が失脚したことがそれほど嬉しいのですか」
 流石にムッとして言うと、癇に障る笑声がふっと止んだ。領議政はふいに表情を引き締めた。
「これですべてが終わったと我々が考えているとお思いですか? 殿下」
 ユンは押し黙った。それはどういう意味なのか? まさか、妃としての身分を失い、宮殿を追放された明姫をまだ執拗に追い狙うというのか!?
 顔色を変えたユンを領議政は醒めた眼で見つめ返した。
「ご心配なく。我らとてこの国の民であり、臣下です。金淑媛にはとりあえず、無事身二つになって頂かなくてはなりません。現在、殿下に御子が一人もおられないこの状況を考えれば、たとえ廃妃の生んだ御子でも、貴重な存在です」
 万が一、この男が明姫の懐妊を嘘だと知れば―、そう想像しただけでユンの背を嫌な汗が流れ落ちる。
 しかし、領議政は良い意味で勘違いしてくれたようだ。彼は肩を竦めて続けた。
「それに、たかがあのような小娘一人、怖れるには足りません。妃の身分も殿下の寵愛も失った今、あのような女に何ができましょう。御子は無事に生まれた暁には、すぐに宮殿に引き取り、中殿さまの御許でお育てします。殺すほどのこともない。せいぜい尼となって、後世を弔いながら生きてゆくのが似合いです」
 あまりの酷い言葉に、ユンは怒りに震えた。
「問題はこれからですな。殿下には是非、我々の勧める娘を側室として迎え、今度こそ健康な世継ぎを作って頂かなければ」
「それはお断りします」
 ユンは真っすぐに領議政を見た。
「私は種馬ではない。更に、欲しいと思う女しか要りませんし、抱つくもりもありません。愛してもいない女を抱けば、?昭容のように不幸な者をまた作るだけだ」
 領議政が呆れたように鼻を鳴らした。
「いつまで若造のようなことを仰せなのでしょうね。殿下は確かにお若いが、あなたは世の並の若者とは立場が違うのですぞ。まあ、我々もせいぜい殿下のお好みに沿うような金淑媛のごとき楚々とした美女を探して参りましょう」
 領議政はそう言うと、一礼し余裕で出ていった。
 ユンは溜息をつくと、執務机に拳を打ちつけた。自分は本当に無力だ。今ほど自分が情けない男だと思ったことはかつてなかった。

 明姫は小さな息を吐き出すと、空を見上げた。紫紺の夜空には冬の星々が煌めき、吐く息は白く儚く夜気に溶けてゆく。
 都を出て、この郊外の寺に移ってはや数ヶ月が流れた。暦は代わり、新しい年になって半月になる。
 空にはふっくらとした満月が切り紙細工を貼り付けたように浮かんでいる。
 ユンの御子を身籠もったまま宮中を退出した明姫は去年の暮れ、残念ながら流産したということになった。まだお腹が目立ち始める前に、流産したということにしなければ、この度の懐妊がすべて偽りであったと発覚してしまうからだ。
 宮殿から遠く離れたこの山寺で子は流れた―という筋書きのため、わざわざ確認に来る者もおらず、話はすんなりと通った。特に宮殿でも怪しまれている風はないと崔尚宮からの書状が届き、安堵している。
 今宵、この人里離れた寺では、祭りが行われた。祭りといっても、供養のようなもので、亡き人の魂を鎮めるために行うものだ。
 そのため、本堂の屋根の下には灯籠がふんだんに吊られ、張られた白い紗(うすぎぬ)を通じて紅い焔が揺れている。
 大きな寺なので、かなりの広大な敷地に本堂や様々な伽藍が点在している。明姫の他にも修行中の僧侶や小僧、柔和な面立ちの住職、更には寺男やその家族など様々な人が暮らしている。