何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
当初は歩くどころか、立つこともままならないほど衰弱しており、このまま淑媛さまはお亡くなりになるのではと皆は心配したのだ。
だが、十六歳という年齢と元々丈夫であった身体は回復も早かった。三日目には床に起き上がり、五日目には自由に歩けるまで回復し、今は殆ど普通の暮らしに戻っている。昨日からは刺繍も始めて、明姫の顔色はすっかり元どおりになった。
案じられるのは、大殿前で廷臣たちが明姫追放を願い出ていることだが、国王さまに限って淑媛さまを遠ざけるようなことはしないと誰もが信じ切っている。
ヒャンダンが明姫の笑顔を見て、つられるように笑顔になった時、扉の向こうから女官の声が聞こえた。
「淑媛さま、国王殿下のお越しです」
その声に、明姫とヒャンダンは誘い合わせたように顔を見合わせる。
明姫はヒャンダンに頷き、先に立って部屋を出た。回廊から階を降り、庭まで国王を迎えにいく。ヒャンダンがその後に続いた。
庭は既に宵闇の底に沈んでいる。女郎花が黄色い可憐な花をひっそりと咲かせていた。
「いらっしゃいませ、殿下」
淑やかに腰を折ると、ユンは微笑んだ。
「元気にしていたか、淑媛」
「はい。今日も変わりなく過ごしておりました」
「それは良かった」
ユンは頷き、明姫と並んで殿舎に入った。明姫の居室に脚を踏み入れると、それまで明姫が座っていた座椅子にゆったりと座る。
その背後には墨絵で描かれた蓮の屏風があった。
しばらくして、気を利かせたヒャンダンが女官を伴い、小卓を運ばせてきた。
小卓の上には様々な酒肴が並んでいる。むろん、酒も用意されていた。明姫は二つ並んだ盃の一つをユンに渡し、酒器を捧げ持ち彼の盃を並々と満たした。
ユンはひと息にクイと煽る。明姫が再び盃を満たそうとするのを、彼は手で制した。
「今宵はもう呑まない」
「さようにございますか」
明姫は頷き、素直に差しのべた酒器を引っこめた。
「何故か、今夜はそなたと出逢った頃のことばかり思い出されてならない」
ユンの言葉に、明姫も頷いた。
「私もです、殿下。町の隠れ家でこうやって二人だけでお酒を飲んだり美味しい料理を頂いたりしました」
「そうだったな」
ユンは感慨深そうに頷き、遠い瞳になった。あの頃のことを思い出しているだけにしては、あまりに沈んだ眼をしていることが気になる。
「何から話せば良いのか」
ユンは言うなり、口をつぐんだ。
しばし黙考していた彼は、やがて低い声で話し始めた。
「そなたには済まないことをした」
「―」
明姫は愛らしく首を傾げる。本当に何故、彼がいきなり謝罪するのか判らなかった。
そんな明姫を見、ユンは淋しげな微笑みを浮かべた。
「そなたの生命を救うため、懐妊と偽ったことがかえって明姫を追い込んだ」
明姫は首を振った。
「ありがたいことだと思っています。そこまでして私を助けて下さったこと、殿下のお心が嬉しうございました」
そう、明姫が懐妊したというのは、すべて嘘であった。ユンが苦渋の末に決断した苦肉の策であったのだ。
「あのときは、ああするしか方法はなかった。懐妊を発表しなければ、そなたは義禁府で拷問を受けることになったかもしれない。嫌疑が晴れたからといって、易々と引き下がるような大妃さまではないからな」
また何かしら理由をつけて、明姫を拘束し義禁府に連れ戻したことも考えられる。
実際には、黄内官から明姫が今にも義禁府で拷問を受けようとしていると聞き、咄嗟に選んだ道だった。あのときは結局、懐妊を持ち出さずとも、拷問を回避できた。義禁府長が国王の静かな怒りに触れただけで、怖じ気づき明姫を解き放ったのは幸いだった。
だが、その後、明姫の身をやはり守るためにと御前会議で金淑媛懐妊を正式に発表したのだ。
「何故、突然にそのようなことをおっしゃるのですか、殿下」
今更、彼が改まって謝る必要はないはずである。ユンの言葉どおり、あの嘘は彼が明姫を守るために考え出した究極の策だったのだ。誰が彼を責められるだろう?
「だが、母上はそなたの懐妊を知ってから、余計にいきり立った。私があんな嘘をつかなければ、そなたがここまで窮地に立たされることはなかったはずだ」
確かに、?金淑媛懐妊?の報は大妃を煽った。あれは大妃の明姫への憎悪を更にかきたて、大妃は明姫排斥の強行を決意したのだ。
気の強い大妃には、宣戦布告に思えたのだろう。それが結果として領議政を動かして大殿前での示威行動にまで発展した。
追いつめられたネズミは何をしでかすか判らない。そのことを何故、忘れていたのか?
だが、流石のユンも母がこうまで速く動くとは考えていなかった。いずれ明姫排斥のために動き出すとは覚悟していたものの、それはもう少し先のことになると予想していた。彼の読みが甘すぎたのだ。
何しろ中殿毒殺未遂の疑いが晴れたばかりである。その矢先に再び牙を剥いてくると誰が考えるだろう?
ましてや、偽りとはいえ、明姫が懐妊したとなれば、その腹の子は大妃の孫にもなる。まさか、孫を身籠もった明姫を手に掛けるまではすまいと、心のどこかでユンは考えていた。だが、今回の示威行動を見ても、母は腹の子ごと明姫を葬り去りたいに相違なかった。
つまり、母の怖ろしさと執念深さをまだ理解し得ていなかったともいえる。
何事かに想い悩むユンを見ている中に、明姫の心にストンと落ちてきたものがあった。
「殿下」
明姫はまるで母親のように優しい声音で呼んだ。
「そのようにお悩みにならないで下さい」
ユンが弾かれたように面を上げる。
その刹那、ユンは最愛の女の表情に仏を見たような気がした。或いは濁りきった泥池から凜とした気高い花を咲かせる蓮花。
「私ってば、相変わらず鈍感で。殿下が何故、今夜はお酒もお飲みにならず、沈んでいらっしゃるのかと不思議に思っていました。でも、先刻、やっと判りました」
明姫は晴れやかに微笑んだ。
「殿下は今夜、お別れに来て下さったんですね?」
「明姫」
ユンに皆まで言わせず、明姫は小さくかぶりを振った。
「もう、何もおっしゃらないで。明姫は殿下のお気持ちはこれでも理解できているつもりです。今夜、殿下はずっと私の眼をご覧になろうとしてしていなかった。あれで、ピンと来ました」
「明姫、やはり、私は」
ユンが言いかけると、明姫はいつものたおやかさは別人のように厳しい声音になった。
「それ以上、仰せになってはなりません。殿下が義禁府の牢にまでお越し下さった時、私は自分の気持ちをお伝えしたはずです。後世まで語り継がれるような聖君になって頂きたい、私がたとえお側からいなくなっても、迷うことなく王としての道を歩んでいって頂きたいと」
その私の願いを殿下は聞き入れては下さらないのですか?
明姫は聞き取れないほどの低い声で言った。
「私が身を退くことで、殿下のお立場が少しでも楽になるのなら、私は歓んで参ります」
「―済まない、明姫」
ユンのまなざしが揺れ、声が震えた。
「最後に一つだけ、お願いがあります」
眼を見開いたユンに、明姫は艶やかに微笑んだ。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ