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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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「あれは冤罪であったという証拠が出たと聞きました。同じ後宮に住まう者同士。しかも、殿下と私がいかに形ばかりの夫婦とはいえ、私と淑媛は仮にも殿下という一人の良人に共に仕える身です。広いようでも狭い宮殿のことですから、無用な諍いや憎しみは避けるべきかと存じます」
「愕いたな、中殿。そなたがそのように拓けた心の持ち主とは知らなかった」
 ユンが心底から言うと、王妃は咲き誇る牡丹のような面にやわらかな微笑を浮かべた。容貌も性格も若き日の大妃を彷彿とはさせるが、王妃にはまだしも大妃にはない情理を備えた面がある。
 ユンにはそのことがまだ慰めともいえた。
「母上さまからは、中殿にあるまじき不甲斐なさと厳しいご叱責を頂きましたが。とにかく、私も早く肩の荷を降ろしたいのです、殿下。誰でも良い、側室の一人が王子を生み奉り、その子が世子となれば、これで私も漸く勤めを果たしたことになりますゆえ」
「そなたともっと早くにこうして心を割って話したかった」
「そのような期待を持たせるようなことをおっしゃらないで下さい。思うに、殿下と淑媛は奇しき縁で結ばれているのでしょう。たとえ何人の女が側室として上がろうと、殿下のお心を頂くのは淑媛のみだと私は判っております」
 王妃は言うだけ言うと、立ち上がった。
「ご公務でお忙しいときに、失礼致しました。とにかく、これで母上さまの御意はお伝え致しました。私は先刻も申し上げたように、淑媛を憎いとも追い出したいとも考えておりません。ただ、大妃である母上さまから、このようなご意見が出た以上、内命婦を取り仕切る後宮の長として、見過ごしにはできません。私や母上さまの体面も願わくばお考え下さり、ご決断下さいませ」
 背中を向けた王妃に、ユンは声をかけた。
「今からでも遅くはない。そなたが次の王の母となっても良いのだぞ?」
 王妃のたおやかな歩みが止まった。彼女は振り返ることなく、前を向いたまま言った。
「そのお言葉をもっと早くにお聞きしとうございました。淑媛とめぐり逢われた今、殿下のお心の内に私の入る場所はありません。私は?昭容のようにはなりたくない。女は一度甘い夢を見て期待してしまえば、なかなか現実を知ることはできないものなのですよ、殿下」
 王妃が去った後、部屋には残り香であろううか、得も言われぬかぐわしい香りが漂っていた。
 もう少し早くに解り合いたかった。図らずも、今日、ユンも王妃も同じことを言った。そうだったのだろうか。もし仮に王妃ともっと早くに夫婦らしい夫婦になっていたとしたら、明姫に心惹かれることもなかったのか。
 ユンは溜息をついた。止そう、過ぎたことを考えても仕方ない。王妃も言ったように、自分と明姫は出逢うべくして出逢い、恋に落ちたのだ。
 一生に一度の恋をした。だが、この烈しい恋のゆくえは、どこに向かっているのだろう。
 ユンはまだ部屋中に漂う王妃の残り香を振り払うように、勢いよく首を振った。  

 更に大妃の意見に迎合するように、翌朝から大殿前に廷臣たち一同が土下座して上訴を始めた。
「殿下、金淑媛の罪はいまだ完全に晴れたとは言えず、このまま淑媛を後宮にとどめおかれては民草にも示しがつきません。どうか、ご賢明なるご判断を我々にお示し下さいませ」
「ご英断をお願い申し上げます」
 領議政ペク・ヨンスを筆頭に議政府の三政丞(サンチヨンスン)(領議政・左議政・右議政)を初めとした六?の官吏たちがうち揃い、終日、金淑媛の宮殿追放を声を上げて叫び続けるのだ。
 それは連日続き、その中(うち)には集賢殿の学者一同からも、
―道義的に考えても、中殿さま暗殺未遂の容疑者となった金淑媛に何のお咎めもないのは、いかがなものか?
 との金淑媛に相応の処分を求める声が相次いだ。
「殿下、どうか金淑媛を宮殿から追放して下さい」
「この国の王として正しい道を民にお示し下さい」
 その日も大殿前では廷臣たちが声を嗄らして金淑媛の処分を求めていた。
 もう、これで十日になる。ユンは執務机に座り、固い表情で虚空を見つめていた。その前には盆に載った書状の山が乗っている。これはすべて廷臣たちから上がってきた上奏文であり、金淑媛の処分を求める内容であった。
 そこに扉が開いて、黄内官が新たな書状の山を運んでくる。
「これがすべて淑媛の処分を求めるものなのか?」
 絶望の色に染まったユンの面はここ十日でひと回り頬がそげ落ち、やつれが目立った。
「畏れながら、殿下、少しお寝みになってはいかがでしょう。かなりお疲れのご様子とお見受け致します」
 ユンは暗い表情で首を振る。
「このようなときに、呑気に眠ってなどおられぬ」
 黄内官はハッと胸をつかれた様子だ。
「しかしながら、殿下は大切なお身体、代わりのきかない御身におわします」
 黄内官の心からの進言に、ユンはひっそりと笑った。
「いっそのこと、気を失ってしまえば、何もかも忘れられるかもしれないな」
「殿下!」
 気遣わしげな中にもかすかな非難のこもった声音に、ユンはまた笑う。
「大丈夫だ。己れの果たすべき責務を忘れるほど愚かではない」
 黄内官が執務机に近寄り、声を低めた。
「僭越を承知でお訊ね申し上げます。淑媛さまの処遇は、どのようになさるおつもりで?」
「まだ決めてはいない」
 疲れの滲んだ声に、黄内官は痛ましげに眼を伏せた。
「黄内官、やはり少し眠ろうかと思う。しばらく誰も近づけないでくれ」
 ユンは黄内官に弱々しく微笑んだ。
夜になった。夕方近くなって寝所から出てきたユンは黄内官に無表情に告げた。
「淑媛の許に参る」
「はい、殿下」
 黄内官はユンの哀しい覚悟をひとめで悟ったのか、やり切れない表情で頷いた。

 明姫は針を持つ手を止めた。今、向かっているのは刺繍額である。白の絹布がはめ込まれており、そこには一対の蝶と桔梗が描かれていた。もちろん、明姫が刺繍したものだ。
 義禁府に囚われの身となっている最中、ユンが一輪の桔梗を携えて逢いにきてくれた。あのときの歓びは忘れられるものではない。
 肝心の花はとっくに枯れてしまったけれど、彼の真心の証として、いつまでも明姫の心の中で咲き続けている。
「どうかしら、蝶が少し小さすぎたような気もするのだけれど」
 明姫が小首を傾げると、傍らに控えていたヒャンダンは微笑む。
「そのようなことはありませんわ。いつもながら、とてもお上手です。淑媛さまのお手にかかると、一枚の布が紙のようになるのですね。まるで今にも飛び立ちそうな蝶と風に揺れそうな桔梗。天才絵師が描いた名画にも引けを取らない出来です」
「それは褒めすぎというものよ」
 明姫はそれでも頬を紅潮させて、嬉しげに笑う。
 明姫が義禁府から解放されて十数日が経った。国王自らが明姫を抱きかかえて殿舎まで連れ帰った時、ヒャンダンを始めとする女官一同は皆、泣いた。特にヒャンダンは弱り切った明姫に取り縋って泣いた。
 むろん、それは嬉し泣きでもあったけれど、その中には、あれほど健やかそのものであった明姫が別人のように変わり果てた姿で帰ってきた哀しみもあった。