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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 領議政は早口で言うだけ言うと、扇を閉じた。パチンと小気味の良い音が聞こえ、彼は扇を懐にしまった。
「それでは、今日はこれで失礼致します」
 扉を開けて出ていこうとした領議政がつと振り返った。 
「大妃さま、焦る必要はありません。金淑媛を宮殿から追い出す機会など、まだこれから幾らでもありますよ。かえって焦りすぎて、今回のように計画そのものが杜撰になっては元も子もありませんからね」

 領議政が出ていった後、大妃はしばらくぼんやりと宙を睨み据えていた。
 やがて、癇性な声を上げた。
「朴(パク)尚宮、朴尚宮」
「はい、大妃さま」
 大妃の側近中の側近である朴尚宮がすぐに入ってくる。
「それにしても、どうも私は腑に落ちぬ。金淑媛が懐妊したというのは真なのか?」
 朴尚宮はやおら小首を傾げた。
「事の真偽までは判りかねますが、大妃さまは何故、そのようにお考えになるのですか?」
「話ができすぎておる」
 大妃は癇性に爪を噛んだ。考え事をするときの癖である。
「今回の件について、先刻も兄上から指摘を受けたが、確かにこちらも急ぎすぎた。ゆえに、呪符や人形などの証拠も言ってみれば、あまりにお粗末すぎたのやもしれない。計画そのものがあまりにできすぎていた、向こうにわざとらしい印象を与えたのだ」
 大妃は更に視線を泳がせた。
「淑媛懐妊の件はそれと同じことを思わせるのだ。淑媛が義禁府で拷問を受け、まさに罪に問われようとしているその時、よりにもよって懐妊の発表などと、あまりにも時期が合いすぎると思わないか?」
「では、大妃さまは淑媛さまのご懐妊が偽りだと?」
「しかとは言えないが、何かきな臭いものを感じる」
「さりながら、大妃さま。内医院の医官にも確かめましたところ、間違いなくご懐妊だと申しております。義禁府でお倒れになったのも、実はご懐妊ゆえだったと」
 大妃がギリッと歯ぎしりした。まさか王が内医院の侍医を抱き込んだのだとは思いもよらない。
―生命が惜しくば、言うとおりにせよ。
 大殿に呼ばれて冷えた声音で国王に告げられた侍医ははやそれだけで震え上がった。
「認めぬ、絶対に許さぬ。あのような成り上がり者が次の王の生母になるだなどと」
 大妃は文机の上の硯を腹立ち紛れにぶつけた。硯が扉にぶつかり真っ二つに割れる。
 廊下に控えていた尚宮や女官たちは肩をすくめて顔を見合わせて頷き合った。その女官たちの中にはむろん崔尚宮もいた。皆、大妃のヒステリーはいつものことなので、彼女たちは慣れている。
「あの者の生む子が国王になるなど、あってはならないことだ」
 甲高い声はキンキンと廊下にまで響き渡った。
 だが、このまま野放しにしていては、やがて月満ちれば、淑媛は王の御子を生む。万が一、その御子が王子であったら?
 駄目だ、到底このままにはしておけない。大妃はまた苛々と爪を噛んだ。
 兄はあのように悠長なことを言っているけれど、十月十日経てば、子は生まれるのだ。災いの種は早々に摘み取ってしまわなければ。
 何とかして憎らしい女をこの後宮から追い出す算段はないものか。大妃は爪を噛みながら、新たな悪巧みに耽り始めた。
 一方、廊下に控えている崔尚宮は、姪の懐妊が判ったというのに、浮かぬ顔であった。
 
 そして、事態は更に思わぬ方へと動いたのだった。明姫の懐妊が公式に発表されて三日が経った。その朝、珍しく王妃が大殿を訪れた。
「殿下、中殿さまがお越しにございます」
 黄内官が告げると、ユンは頷いた。
「うむ、通してくれ」
 ほどなく両開きの戸が開き、王妃が入ってきた。正妃のみに許された盛装が白皙の美貌によく映えている。王妃が身動きする度に、結い上げた黒髪に挿した数々の簪が涼やかな音を立てた。
「珍しいな、中殿。あなたの方から訪ねてきてくれるとは」
 それは率直な感想だった。大体、気位の高い王妃が大殿にやってくるなど、結婚して初めてのことではないか。
「実は、昨夜、母上さまがおいでになられたのです」
 執務机の向こうには来客用の丸机がある。王妃は当然のように丸机を挟んで王と向かい合った。
「母上が?」
 ユンは露骨に眉を寄せた。普段はよそよそしい妻が初めて自分を訪ねてきたと思えば、やはり嬉しくないことはなかった。だが、いきなり大妃を出されて、その弾んだ心も見る間に萎んだ。
 気の強い女にしては珍しく、王妃は少しの逡巡を見せた。
「殿下、私は持って回った物言いは苦手です。ゆえに、単刀直入に申し上げます」
 覚悟を決めたようにひと息に言う。
 ユンは嫌な予感がした。雨雲が空を覆うように、不安が心を黒く染めていく。
「母上はこのように仰せでした」
―殿下は金淑媛の処遇をこのままにしておかれるおつもりなのか?
「それはどういうことだ? 中殿」
 ユンが整った面を不快げに曇らせたのを見、王妃は小さな溜息をついた。
「つまり、このたびの件について、淑媛はとりあえず罪を免れたものの、依然として嫌疑がすべて晴れたわけではない。そのような者をこのまま以前と同様に後宮に留め置いては、皆に示しがつかないと」
「私も持って回った言い方は嫌いだ。だから、はっきりと言うが、それは、つまり淑媛を後宮から追放するということか?」
 ユンの声音は固かった。
 王妃はまた溜息を洩らし、頷いた。
「有り体に申せば、そういうことです。ただ、誤解なさらないで頂きたいのですが、この件は私の意思ではありません。別に殿下のご不興を蒙るのがいやで、このようなことを申しているのではありません」
「というと?」
 王妃は溜息混じりに昨夜の大妃との会話の内容を話した。
―そこまでなさらなくても良いのではございませんか?
 大妃の話をひととおり聞いた後、王妃は控えめに言った。
―側室の生む子とはいえ、殿下の御子が誕生するのは王室にとっても慶事です。何も殿下の御子を懐妊した側室を宮殿から追い出さずとも良いのではないでしょうか。
―何を人の良いことを仰せになっているのだ、中殿。あのような賤しい女狐の生む子どもを私は断じて孫と認めるつもりはない。あの女はそれでなくても殿下のご寵愛を欲しいままにしている。この上、もし世子の生母になろうものなら、我が者顔で後宮を闊歩し、いずれは中殿の座さえ奪おうとするやもしれませんぞ。
 結局、王妃はユンに大妃の意を受けた形で、淑媛追放を勧めにやってきたということだった。
 女に現を抜かす息子を相手にしていても埒があかないと判断した大妃は作戦を変えた。今度は嫁を動かしたのだ。大妃直々の言いつけとあれば、中殿も動かざるを得ないのを見越してに違いない。
 中殿の話を聞いている中に、ユンの顔はますます強ばっていった。
「母上はそこまで仰せになられたのか」
「本音を言えば、私はどちらでも良いのです。殿下と私が解り合えぬのはもう致し方のないこと。私が本来果たすべき勤めを果たしてくれるというのなら、特にどの側室であろうが構いません」
「しかし、淑媛はそなたを毒殺した疑いをかけられていたのだぞ? 仮に淑媛が王子を生んだら、その子が世子となる。それでも良いのか?」
 王妃は形の良い瞳を見開き、首を振った。