何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
黄内官に促され、男は一礼して少し前に進み出た。廷臣たちの視線がその男に集中する。睨むような視線にさらされ、男はおどおどと周囲を見回してから、うつむいた。
「私は都の外れで医者をしているホ・ソンと申すものでございます。私は監察部の楊尚宮さまから依頼され、監察部で自害を図った成女官の亡骸を検分致しました。その結果、成女官は自害などで亡くなったのではない、何ものかに殺されたのだという事実が明らかになりました」
「ホソンとやら、なにゆえ、そのようなことが判ったのだ? 偽りやデタラメを申せば、この場でその首が飛ぶと承知しておるのだな」
領議政が憎々しげに言い放つのに、ホ・ソンは首を振った。
「偽りやデタラメで、このようなことは申し上げられません。死というものは厳粛なものです。医者は病を治すのも大切な仕事ですが、また死人の死因を正しく明らかにするのも務めかと存じます」
「ホホウ、たかが町医者がそこまで大言をほざくのなら、その理由とやらを申し述べてみるがよい」
ホ・ソンはまた頭を下げてから続けた。
「私めが自害ではなく他殺だと考えた理由は二つあります。まずは成女官の亡骸には、はっきりと誰かに首を絞められた跡が―有り体にいえば手形が残っていました。また、二つめは、成女官の爪の中に明らかに誰かと争った痕跡がありました。つまり、首を絞められた時、成女官はかなりの抵抗をしたものと思われ、その際に床をかきむしったり、自分を殺そうとする者の手をひっかいたりしたのです。亡骸の爪には木屑や人の皮膚がかなり残っていました」
淀みない説明に、領議政が息を呑んだ。
その反応を十分に確かめてから、ユンは口を開く。
「ホ・ソンの申し分が医学的に信憑性のあるものかどうかは、既に内医院の侍医たちにも確認してある。そこで、領相。これだけの証拠があるのに、金淑媛を直ちに中殿殺しと結びつけることはできぬと予は思うのだ。更に穿った見方をすれば、何ものかが淑媛を陥れようと―つまり淑媛に中殿殺しの罪を着せようとしたとも考えられるのだが、そなたはどう思う?」
ユンは畳みかけるように問いかけ、更に続けた。
「それにしても、おかしなこともあるものだ。成女官は何故、自殺に見せかけて殺されたのか? 何ものが淑媛にありもしない罪を着せようとしたのか? しかも、淑媛を罪人に仕立て上げるために、わざわざこれ見よがしの証拠まででっち上げている」
知らん顔で言い、それとはなく領議政の顔を見たら、海千山千の男が心なしか蒼褪めている。
今日はここまでだ。ユンは思った。追いつめられたネズミは進退窮まって何をするか判らない。結果、彼の大切な明姫がかえってまた狙われ、標的にされかねないのだ。
ここはこれ以上、領議政を刺激しない方が賢明だろう。いずれ、この情け容赦もない男にとどめを刺すときも来るだろうから。ただし、今はそのときではない。
「これでも、そなたたちはまだ金淑媛を処罰せよと申すか?」
「―」
「―」
皆が顔を見合わせ、うつむいた。気まずい静寂が満ちた中で、領議政だけが苦虫を噛みつぶしたような表情で座っている。
ユンは皆が静かになったのを見て、再び口を開いた。
「次に、今度は予からそなたらに伝えたいことがある。左副承旨」
目顔で合図すると、黄明尚が恭しく四角い箱を捧げ持ってくる。その上から巻紙様の書状を取り上げ、ユンはひときわ声を高くした。
「かねて義禁府に身柄を拘束中の金淑媛はこのたび、王の子を懐妊した。そのため罪状の追及は今すぐ行わず、追って王命が下るまで、その身柄は後宮預かりとする」
おおーっと、その場が先刻より更にざわめいた。
「昨夜、予は都承旨にこの内容で王命を下した。しかし、何故か王命が伝わっておらず、危うく淑媛は義禁府で拷問にかけられるところであった」
しわぶき一つない空間で、ユンの声だけが朗々と響く。
「王の子を懐妊した者を拷問にかけるとは正気の沙汰か? 大方、都承旨が今日、この場におらぬのも急な病などが理由ではないのだろう」
ユンは更に続けた。
「さりながら、状況はまた一転した。淑媛の無罪はこれで大方立証でき、かの者を罪に問う必要はなくなったのだ。ゆえに、罪状を問うも何もない。良いか、皆の者、心して聞くが良い。今後、予のただ一人の子を身籠もった金淑媛をを害する者は国王たる予に仇なす者と見なす。さよう心得よ」
「何と」
「殿下はついに女に血迷われたのか。正気の沙汰とも思えぬ」
流石に大きな声では言わないけれど、あちこちで似たような非難の声が上がった。
領議政は相変わらず黙した石像のように固い横顔を見せていた。
御前会議の後、領議政ペク・ヨンスは大妃殿に立ち寄った。
お付きの尚宮さえ下がらせて、大妃は領議政と文机を挟んで向かい合った。
領議政は一見、それほどの老獪な人物には見えない。美貌揃いで知られるペク氏一族の中では変わり種ともいえ、小柄でやや太り肉(じし)な身体をせかせかとした足取りで運ぶ姿は、?まるで狸のよう?と後宮の女官たちから評されている。
色黒の顔はお世辞にも男前とはいえず、同母妹である大妃や甥の国王、更には自身の娘の中殿などとは全然違う。
「今回はしてやられましたな。いつまでも若い王だと思っておりましたが、流石はペク氏の血を引くだけはある。王はなかなかの策士だ、侮れませぬぞ」
領議政は王の御前では苦い顔をしていたものの、既にこのときには普段どおりによく笑い喋る陽気な男に戻っていた。
「何をそのように呑気に構えていらっしゃるのです? それにしても、金淑媛が懐妊したというではありませんか。我らが最も怖れていたことが起きたのですよ、兄上」
大妃はすごぶる機嫌が悪い。癇癪を起こす妹を宥めるように、領議政は穏やかに言った。
「良いではありませんか。今、殿下には御子が一人もおられません。たとえ取るに足りない側室から生まれるのだとしても、王室にとってはめでたいことです」
「本気でおっしゃっているのですか、兄上」
大妃が信じられないという表情で問うのに、彼は鷹揚に頷いた。
「ただし、無事に御子が生まれればの話ですがね」
「では、兄上―」
大妃の瞳が妖しく輝いた。領議政は眼前でおもむろに扇を開く。その陰から低い声で囁いた。
「何事も時として思わぬことが起こるものですよ、大妃さま」
二人ともに眼線を合わせ、ひそやかな笑みを零す。こういうときの表情は不思議なもので、普段はまるで似ていない兄妹がうり二つに見える。
「まあ、兄上もお人が悪い。淑媛に無事に子を産ませるつもりがないのだと端からおっしゃればよろしいのに」
「まさか、大妃さま。畏れ多くも殿下の伯父であり朝廷の臣たる私がそのような怖ろしいことを考えるはずもありません」
スと大妃に顔を近づけ、扇で顔を隠しながら小声で言った。
「滅多なことをおっしゃいますな。人払いしてあるとはいえ、尚宮たちの耳もありますぞ」
「まあ、私の身近に仕える者たちは皆、信頼できる者たちばかりです。間違っても、淑媛寄りの者などおりませんから、ご安心あそばせ」
崔尚宮が明姫の伯母であるとは露も知らない大妃である。
「まあ、用心するに越したことはありませぬ」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ