何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
皆が固唾を呑んで見守っている中、国王は弱り切った寵妃を抱きかかえ、静かに立ち去っていく。その後をお付きの黄内官が追った。王が義禁府に乗り込んでくるに当たって伴ったのは、ただ一人、この老齢の内官だけであった。
「ここまで来れば、もう良いだろう」
どれだけ歩いたのか、ふと、明姫を抱えて歩くユンが呟いた。かと思うと、熱い滴が明姫の顔に落ちてくる。
「泣いていらっしゃるのですか?」
戸惑い気味に訊ねても、ユンは無言だった。
「国王殿下がご側室を奪い返すために単身、義禁府に乗り込まれただけでも大変なことです。更に皆がいる前でお泣きになっては、殿下のご面目に拘わりますから」
背後に控えていた黄内官が代わりに応えてくれた。
「ごめんなさい。私なんかのために」
私、ユンをまた困らせてしまった。
明姫が声を詰まらせると、今度はユンの声が返ってきた。
「明姫。今後は、?私なんか?などとは二度と言うな。私はそなただから、愛したのだ。私にとって、そなたは宝だと何度言わせたら気が済むんだ? 私も男だ、そんな気恥ずかしい科白はそうそう言いたくはないぞ」
最後はいつもの彼らしく冗談に紛らわせて言うのに、後ろをついてくる黄内官がクスリと笑った。
「畏れながら殿下、たとえ男といえども、時には本音を申さねばならないこともございます。特に男女間の想いは、はっきりと口に出さなければ相手に伝わりません」
寡黙な内官にしては極めて珍しい発言に、ユンも笑った。生真面目な顔で話すことではないと思うのだけれど。
「黄尚膳(サンソン)さま、この度は色々とありがとうございます」
目立った動きの取れないユンに代わり、黄内官が義禁府や監察部と王の間を行き来し、必要な処理をしたことを知らないはずがなかった。
明姫が礼を述べると、黄内官は笑顔で首を振る。
「私は殿下の影にございます。常に殿下が何をお考えになりお望みかを察し、その御意を叶えるべく動くのが務めなれば、どうぞお気に病まれぬよう」
「明姫、黄内官はこう見えても、奥方とは熱烈な恋愛結婚だそうだ。だからこそ、先のような恋愛指南も我々若い者にできるのであろうよ」
去勢した内官でも妻帯している者は多い。というより、皆、それなりの地位にある両班だから、家門の存続のためにも結婚する。もちろん子は望めないので、しかるべき家から養嗣子を貰い受けて家門を継がせるのだ。
「チ、殿下」
黄内官が柄にもなく紅くなった。
「どうした、爺や。熱でもあるのか、顔が紅いぞ?」
ユンがからかうと、六十が近い大殿内官はますます赤らんだ。
「殿下、もう止めましょう。尚膳さまがお気の毒です」
腕の中の明姫をちらりと悪戯っぽい眼で見つめ、ユンは嬉しげに笑った。
明姫にとっても久しぶりに見るユンの晴れやかな表情だ。二人の後から付いてくる黄内官の表情も心なしかやわらいでいるように見えた。
しばらくの別離
ユンは明姫を後宮の殿舎に送り届けた後、すぐに御前会議を招集した。主立った大臣や廷臣たちが集う中、彼は国王が座る一段高い御座所に座り、皆を見回す。
この突然の会議を開くに当たり、彼は都承旨ではなく、信頼の置ける左副承旨(承丞院の副官)を大殿に呼び、都承旨に与えたのと同じ王命を書かせた。
何を隠そうこの左副承旨黄明尚は黄内官の弟に当たる。ゆえに、これほど信頼できる人材はない。
緊急の招集に臣下たちは皆、一様に何事かと顔を見合わせている。
皆が打ち揃ったところで、ユンはひととおり彼等を見渡し声を張り上げた。
「今日、そなたらに集まって貰ったのは他でもない。かねてから中殿毒殺未遂について、何かと宮殿内が騒がしい。そろそろ決着をつけねばならない時期だと思うのだが、いかがであろう?」
「それは当然にございましょう。仰せのとおりかと存じます」
まずは礼?判書(イエジヨパンソ)が王に同調する形で口火を切った。
「殿下。臣領議政ペク・ヨンスが謹んで申し上げます。例の騒動については、既に中殿さまのお生命を狙い奉った大罪人も捕らえられたというのに、何故、殿下はその大罪人を裁かれないどころか、庇い立てなさるのでしょう?」
ユンにとっては伯父に当たるペク・ヨンス、朝廷一の実力者である。この伯父は中殿の父なのだ。この口ぶりでは大方、大妃と結託しているのは間違いなかろうと思った瞬間、総毛立った。
この男は我が娘すら、手駒として使うのか? 大妃と伯父が共謀していたというなら、予め中殿に毒を飲ませることは領議政も知っていたはずだ。
領議政は知っていて、それを見ないふりをしたのか!? 信じられない話だった。最悪の場合、娘を失っていたかもしれないというのに、この男は平然とここに顔を出し素知らぬ顔で話している。
こんな冷酷な男が自分の伯父だと思うと、虫酸が走りそうになるが、同時に中殿への憐憫の情を憶えずにはいられなかった。まさか、今回、中殿に率先して毒を飲ませたのがその父親と叔母であるとは誰が考えるだろう。
領議政にとっては、娘でさえ、いつでも切り捨てられる手駒にすぎないのだ。この先、中殿が懐妊する見込みは薄いと判った今、情など二の次なのだろう。領議政にすれば、王子を生まない実の娘より、国王の心を動かして王子を生んでくれる養女の方がよほど大切なのかもしれない。
ユンは軽く眼を瞑った。いや、今は私情に囚われているときではない。彼は眼を見開くと、腹に力を込めた。いよいよ老獪なこの伯父と真っ向からぶつかる瞬間が来たのだ。
「そなたは何が言いたいのだ、領相(ヨンサン)」
まずは相手の腹の内を探ってやる。領議政は立ち上がり、慇懃に一礼した。
「金淑媛が中殿さまに毒を盛ったは既に明白。殿下の淑媛へのご寵愛が厚いことは我らも重々承知してはおりますが、さりとて、天下の大罪人をこのままおめおめと後宮に野放しにしておくこともできますまい」
「それについて、他に何か意見は?」
改めて一同に問いかけると、即座に廷臣たちが次々と立ち上がり、領議政を援護する意見を述べる。むろん、その中には?昭容の父兵?判書の姿もあった。
「殿下、どうか大罪人金淑媛を死罪に処して下さい」
「殿下、金淑媛の死罪を我々は求めます。どうかご了察下さいませ」
皆が口々に言い始め、途端にその場が騒がしくなった。
ユンはあらかたの発言が出そろったのを見計らい、鷹揚に頷いた。
「そなたらの意見はもっともである。されど、それは金淑媛にかけられた嫌疑が真実であった場合であろう。今回の事件について、確かに明らかな証拠が出た。とはいえ、また、淑媛が罪人であるという事実を覆す証拠も出ておるのだ」
「それは聞き捨てなりませんな。今の殿下の仰せを聞けば、金淑媛が無罪であるかのように聞こえますが、何かそう言い切れるだけの証拠が本当におありなのですか?」
案の定、領議政がすぐに食らいついてきた。
ユンはまたゆったりと頷く。
「むろん、そなたらが知りたいと願うのは当然だ」
ユンが頷くと、広間の片隅に控えていた黄内官が一旦外に出た。ほどなく黄内官に伴われて現れたのは木綿の粗末なパジチョゴリを着た男であった。
「この者が淑媛が無罪であるという証拠を持っている」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ