何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
「実は金淑媛さまがお倒れになったと」
「何だと? 明姫が倒れた―」
ユンは悲鳴に近い声で怒鳴った。
「義禁府に行く。すぐに支度を」
叫んだユンに、黄内官は真顔で首を振った。
「行かれてはなりません」
「何故だ! 何ゆえ、私を止める?」
黄内官は深々と頭を下げた。
「畏れながら、殿下。先刻、私が申し上げたことをお忘れですか?」
「―」
ユンは黙り込み、あらぬ方を向いた。
今夜、彼は愛妃の囚われている義禁府に行った。そのときも最初は黄内官は難色を示したのだ。だが、ユンが半ば強引に我意を押し通す形で渋々認めたのだった。
その際、黄内官はユンに真摯な瞳で告げた。
―殿下、もし殿下が淑媛さまを心から大切に思し召すのなら、どうか今はご自重なさいませ。
彼は言ったのだ。淑媛が何故、今のように窮地に追い込まれたか? それは国王の寵愛が彼女一人に集まりすぎたせいだ。仮にユンがもう少し明姫の立場を慮って、彼女だけに溺れず、形だけでも他の妃たちに対して公平に見えるようにふるまえば、大妃がここまで明姫を憎み排除しようとすることもなかったろう、と。
もちろん、国王に対してだから、ここまであからさまに言ったわけではない。しかしながら、黄内官の進言は大体、こんな内容であった。
それを指摘された時、ユンはかなりの衝撃を受けた。
自分が情熱に任せて明姫を求め続けたことが、結局、明姫を追い込むことになった―。
ユンが物想いに沈んでいると、黄内官の真剣な声音が耳を打った。
「先刻はお忍びで誰にもお姿を見られないというお約束でした。それゆえ、私もお伴致しましたが、今回ばかりは殿下をお行かせすることはできません。もし、どうでも淑媛さまの許にお行きになるというのなら、先にこの私を殺して下さい」
今夜、義禁府に忍んで出かけたときも、黄内官はずっと牢のある建物の入り口で見張っていてくれた。
深々と頭を垂れる黄内官に、ユンは言った。
「どうか顔を上げてくれ、黄内官」
「殿下」
黄内官が面を上げた。
「ありがとう、爺や。そなただけだ。この広い宮殿で私のことを心底から案じて物を言ってくれるのは」
今も黄内官は生命賭けの諫言を王に試みたのだ。仮にユンが真に女の色香に血迷った暗愚な君主であれば、王の命に逆らったとして、その場で黄内官の首は飛んでいただろう。
だが、と、彼は小さく首を振った。
「あのような場所に淑媛を置いていては、余計に具合が悪くなる」
先刻見てきたばかりの牢内の風景を思い出してみる。じめじめして湿っぽい、昼なお陽もろくに差さず薄暗く、極めて不衛生だ。
「倒れたというのであれば、後宮に戻して養生させることはできないのであろうか」
黄内官は申し訳なさそうに言った。
「それは残念ながら、できかねます。しかしながら、ご安心下さい。淑媛さまの身柄は同じ義禁府内でも牢ではなく、きちんとした別室にお移しし、内医院の侍医が今、手当をしている最中と聞きました」
「それで、淑媛の具合はどうなのだ? 何か特別な病気ということはないのか?」
「申し訳ございません、そこまでの情報はまだ入っていないのです。何か変わったことがあれば、すぐに知らせるように申し伝えては参ったのですが」
ユンは褥に座ったまま、しばらく考えに沈んだ。このまま手をこまねいてはいられない。幾ら別室に移して医者が診ているといっても、今の明姫は王の側室である前に中殿を毒殺しようとした大罪人なのだ。
後宮で側室として与えられる待遇とは雲泥の差があるだろう。今夜見た明姫は、たった三日で信じられないほどやつれ果てていた。衰弱も酷い。このまま義禁府に置いていては、拷問より先に生命が尽きてしまう恐れがある。
「黄内官」
ユンは低い声で内官を呼んだ。
「はい」
黄内官が近づく。
「都承旨(トスンジ)(王命の伝達を行う。承丞院(スンジヨンウォン)の長官)を呼べ」
「は? はい」
黄内官は訝しげな顔になったものの、もちろん何も言わず、すぐに出ていった。
ほどなく都承旨と黄内官が連れ立ってやってきた。
「殿下、お呼びでございますか?」
「今、ここで私が申すことは、逐一書き留めよ」
黄内官が急ぎ支度を調えている。
「ハッ」
都承旨は恭しく頭を下げ、筆と硯が用意された文机に向かった。
ユンは淡々と言葉を紡いでゆく。
「かねて義禁府に身柄を拘束中の金淑媛はこのたび、王の子を懐妊した。そのため罪状の追及は今すぐ行わず、追って王命が下るまで、その身柄は後宮預かりとする」
「―!」
「―!!」
都承旨と黄内官は互いに顔を見合わせ、烈しい驚愕の表情を浮かべた。
「殿下!」
黄内官が何か言おうとするのに、ユンは鋭く言った。
「黄内官、話なら後で聞く。今は王命を皆に伝える方が先だ」
「はい」
黄内官は頷き、口をつぐんだ。が、彼の顔には先刻より更に烈しい愕きが現れた。どうやら、そのハッとした表情から、ユンの意図を見抜いたらしい。
むろん、黄内官の顔からは愕きの表情はすぐに消えた。いつもの沈着な面で微動だにせず立っている。その傍らでは都承旨が流麗な手蹟で王命を巻紙に記していた。
「それでは、先刻、殿下が下された旨をここにしたためました。これを王命として朝廷の臣下一同に伝えます」
都承旨は巻紙をするすると元に戻し、両手で捧げ持つようにして来たときと同様、慇懃に退室していった。
「殿下」
足音が聞こえなくなってから、黄内官が気遣わしげに声をかけてきた。
ユンはほろ苦く微笑した。
「もう、何も言わないでくれ。よくよく考えて出した結論だ」
「承知致しました」
黄内官は眼を伏せ、数歩後ろ向きに下がった。
彼だけは真実を判っているはずだ。しかし、誰よりも王の心を理解する忠実無比な老内官が真実を口にすることは未来永劫あり得ない。
ユンは深い息を吐いた。途方もない疲労感を憶えた。しかし、今は倒れているときではない。明姫を救えるのは国王である自分ただ一人なのだ。
惚れた女一人が守れなくて、何が王だろう、笑わせる。たった一人の妻さえ守れない不甲斐ない男がこの国中の民を守れるはずがない。
ユンは溜息をつきながら、小さく首を振った。
そのふた刻後。朝食も終え、いつものように執務室で書見をしながら、ユンは傍らの黄内官を見上げた。
「黄内官、その後、明姫はどうなった? もう後宮に戻ったのであろうか」
何気なく問いかけた矢先、黄内官が小首を傾げた。
「そろそろ戻られていても良い時間ですが、連絡の来ないのはおかしいですね。私が確かめて参ります」
「ああ、そうしてくれ」
大切な用件は彼に任せるに限る。ユンは比較的落ち着いた気持ちで、既にすっかり馴染んだ?経書?に眼を通し始めた。
だが。ほどなく戻ってきた黄内官は息を切らしていた。
「何だ、歳なのだから、走ったりしては身体に障るぞ?」
黄内官が年寄り扱いされるのを嫌うのを知っていて、わざと軽口を叩いてみたのだが―、黄内官は蒼褪めて言った。
「殿下、戯れ言を仰せになっている場合ではありません。義禁府では、これから淑媛さまの取り調べが行われるとのことです」
「何故? 昨夜の中に都承旨に王命を伝えたはずだが」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ