何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
自分が側にいればユンを苦しめることになり、引いては無用の流血や犠牲者を出すことになる。そう悟った彼女は今、身を退くことで生命を賭けてユンを守ろうとしている。
「死ぬなどと申すな。先刻も申したであろう。私はこの国の王だ。これは王命だぞ。良いか、死んではならぬ。どのようなことがあっても生きるのだ。最後まで望みを棄てずに、私のためにも生きてくれ」
ユンは涙声で格子に取りついた。
「後世に語り継がれるような聖君になれと言うのなら、そなたが側にいて、それを見届けてくれねばならぬ。どんなに嗤われようと、そしられようと、私は弱い男だ。そなたが側にいなければ、王の道は歩けない」
「殿下」
明姫の眼に水晶のような雫が宿っていた。黒曜石の瞳が潤み、まばたきした拍子につうっと雫が白い頬をころがり落ちていった。
明姫はやつれていても、なおも美しかった。いや、やつれ果てているからこそ、これまでのどこか幼さを残した容貌に臈長けた大人の女の凄艶さが加わった。
恐らく本人はその変化に気づいていないだろうが、もし明姫をこの腕に取り戻したなら、彼はますますこの女に魂を絡め取られ溺れずにはいられないだろう。
「明姫」
明姫は呼ばれるままに格子戸に顔を近づけた。二人は引き寄せられるように接近し、格子越しに見つめ合う。
格子を外から握りしめたユンの手に、明姫の小さな手が重ねられた。
「私も愛している。そなたを誰よりも愛し求めている」
ユンが格子に顔を押し当てると、明姫もまた同じように顔を押し当てた。それは格子越しの切ない口づけであった。
ユンのしっとりとした唇が明姫の唇を優しく塞ぎ、悪戯な舌が上唇をつつく。明姫は少し恥じらい、口をわずかに開いた。その隙にユンの舌が入り込んでくる。
二人は舌を絡ませ合い、烈しく吸い上げた。どこか荒んだうらぶれた雰囲気を漂わせる牢内には不似合いな淫靡な水音が妖しく官能をかきたてる。
口づけだけなのに、あたかも一糸纏わぬ姿で重なり合って求め合っているかのような烈しく深いキスだった。どれだけの刻が経ったのか。角度を変えては幾度も唇を重ね、互いを貪り奪い合うように舌を絡め合った長いキスが漸く終わり、身体が離れた。
ユンも明姫も長い情交を終えた直後のように、身体は火照り呼吸は速くなっている。
「感じた?」
こんな状況なのに、いつも夜を共にしたときのように訊ねてくるユン。明姫が恥ずかしがって身も世もない心地になると、何故か嬉しげに笑う。明姫が恥ずかしそうに頷くと、?私も凄く良かったよ?と耳許に熱く濡れた声を注ぎ込む。
明姫にどうしても?感じた?と言わせたくてならないらしい彼は、情事の後でそんな質問をして明姫を困らせることが愉しいらしかった。
「殿下の意地悪」
明姫がこれもいつものように火照った頬を更に赤らめて恨めしげに呟くと、ユンもまた愉しげに笑った。
「そなたを最後まで抱くのは、今夜はお預けだな。また、今後の愉しみに取っておくことにしよう」
ユンは笑顔で言い、立ち上がった。
「良いかい? どんなことがあっても、生きなければならないよ。私のよく知っている明姫は、何が起ころうと最後まで望みを棄てずに前に向いて進もうとする女なのだから」
その口調はいつもの王らしいものではなく、初めて出逢った頃、まだ?集賢殿の学者?だと名乗っていたときのものだ。
「判ったわ。あなたの言うとおり、何があっても諦めないわ」
これもまた、あの頃のように?ただのユンと明姫?のときの口調で言う。
明姫が存外にしっかりとした声で応えると、彼は安堵したかのように微笑みを浮かべた。
「それじゃあ、食事だけはきちんとするんだぞ?」
ユンは幾度も名残惜しげに振り返りながら、去っていった。その長身の後ろ姿が廊下の角を曲がって見えなくなった時、明姫はついに力尽きたように倒れた。
あなたを失って、生きてゆけないのは私も同じ。本当は私だって、死ぬことが怖くないわけじゃない。あなたのいない一面が闇の世界で―いつも見るあの怖ろしい夢のように、何もない世界に逝くのは嫌。
でも、私がいては、あなたが王として歩く道の妨げになってしまう。だから、あなたが幸せになるためなら、私は歓んで生命を差し出すの。大丈夫、あなたは強い男。だから、きっと私がいなくても、立派な王になれる。今は私だけだと言ってくれているけれど、いずれまた、あなたが心から愛せる誰かが現れるでしょう。
薄れてゆく意識の底で、明姫は頬を流れ落ちる熱い涙を感じていた。
だけど、あなたが他の女の人に優しく微笑みかけたり、今のように情熱的に求めたりするのを想像すると、私、辛い。本当はずっと、あなたの側にいたいのに。誰よりもあなたが好きで、こんなにも愛しているのに。
―あの隠れ家にもう一度行ってみたい。
彼に告げたあの言葉は嘘じゃない。でも、本音は隠れ家に行きたいのではなく、二人きりであの隠れ家で過ごした時間に戻りたかったのだ。
まだ彼がこの国の王などではなく、ただの学者の若者ユンだと信じていたあの頃に。心底から帰りたいと思った。
けれど、現実としてユンは朝鮮国王なのだ。それを言えば、ユンを困らせ哀しませるだけだと判っているから、言わないし言えなかった。
泣きながら、明姫の意識は完全に闇に飲み込まれた。
その夜半、大殿の寝所で眠っていたユンは、控えめな呼び声に起こされた。
「黄内官か?」
「はい」
忠実な老内官はユンにとっては影のような存在だ。国王の側には、いつもこの内官の姿がある。
今、黄内官はそれこそ本物の影のように寝所にひっそりと佇んでいた。大殿内官といえども、王の許可なしに寝所にまで入れるのは黄内官のみである。いかに若い王がこの内官を信頼しているかの証でもあった。
「どうした、何かあったのか?」
ユンが半身を絹の褥に起こすのを見計らっていたかのように、黄内官が足音も立てずに近寄ってきた。本当に影が移動するようで、この男であれば、気配すら消せるのではないかと常々、ユンは思っている。
が、現実として、内官は?王の影?といわれているように、終始影に徹さなければならない。それは生涯を誰にも嫁げず後宮で終え、?飛べない鳥、人知れず咲く花?とたとえられる女官の宿命にも似ていた。
男として生まれながら、早くに去勢して男性機能を失う内官。?国王の女?として王の所有物だと考えられる女官。どちらもが国王に生涯、忠誠を捧げ続けて終わるのだ。
「殿下、先ほど、義禁府より連絡が入りました」
?義禁府?のひと言に、ユンは過剰に反応した。
「何か―あったのか! 明姫の身に何か起こったのか?」
黄内官の胸倉を掴まんばかりの剣幕に、黄内官は年若い主君を宥めるように言った。
「どうか落ち着いて下さいませ。あまりに激されては、御身に触りますゆえ」
「そのような悠長なことは申してはおれぬ」
ユンの脳裏に、数時間前に見たばかりの明姫の姿が浮かんだ。ただでさえ小柄で細身であったのに、ますます痩せていた。もう一人では立って歩くことすらままならなくなっているほど衰弱していたのだ。
「これが落ち着いていられるものか。黄内官、一体、何があったのだ、教えてくれ」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ