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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 今度は明姫が愕く番だった。眼を見開いている彼女の前で、ユンがまるで芸人が手妻を披露するかのような手つきで、さっと袖から何かを取り出した。
「―綺麗」
 少しくして、彼の手に握られたのが一輪の桔梗だと判った。
 無邪気に歓声を上げる明姫を満足げに見つめ、ユンは桔梗を明姫に手渡した。
「今日、池のほとりで摘んだ。まだ盛りの花を手折ったら、そなたにけしからぬと怒られるのではないかと思ったが、どうしても明姫に見せたくて持ってきた」
「ありがとうございます。凄く綺麗ですわ」
 明姫の眼に大粒の涙が溢れた。
「よし、そなたが食べたくないというのなら、私が食べさせよう」
 ユンはまた悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「その盆をこちらに寄越しなさい」
「殿下」
 明姫が何か言いたげに口を開くのに、覆い被せるように言う。
「良いから。私はそなたの良人であり、この国の王なのだぞ? そなたは王の命がきけぬというのか?」
 これは王命である。と、笑いながら言うユンを明姫は潤んだ瞳で見つめた。こちらへと手を差し出す大きな手のひらに、震える手で格子の間から碗を渡す。
 それを見たユンの端正な面がいっそう翳った。
「このような碗を持つことさえ、しんどいのか?」
「―私なら、大丈夫です。殿下」
 ユンが綺麗な顔を歪めた。
「そなたはいつも私に大丈夫としか言わない。だが、私はこれでも男だ、少しは甘えたり頼られたりされてみたいと思うのは当然ではないか」
 ユンはまた洟を啜り、碗に木匙を入れ、薄い粥を掬った。
「このような粥であれば、たとえまともに食したとて、身体は保たぬであろうに」
 余談ではあるが、この後、直宗は義禁府及び拘束されているすべての囚人に供する食事の質をもっと良くするようにと厳命を出している。
「それでも食べないよりはよほど良い。さあ、口を開けて」
 ユンが格子越しに木匙を差し入れると、明姫は少し躊躇った後、その木匙を口を含んだ。
 いつも牢前にいる牢番の男二人は、どこかに姿を消している。大方、明姫が眠っている間に、ユンが外へ行かせたのだろう。王衣を纏っていないことからも、彼がお忍びでここに来たのであろうとは容易に察せられた。
「ほら、ちゃんと食べられたではないか」
 ユンは頷くと、また、ひと匙掬って明姫に食べさせた。
「良い子だ、さあ、次も食べて」
 まるで幼い子どもに対するように褒めてくれる。でも、食べさせるユンの方が嬉しそうだ。本当は食べたくなかったけれど、ユンが歓ぶから、明姫は無理をして食べ続けた。
 今の光景を見れば、大妃でなくても愕きのあまり、引っ繰り返るに違いない。この朝鮮全土が広しといえども、国王に粥を食べさせて貰える女などどこにもいない。
 と、明姫がふいにクスリと笑った。
「どうした?」
 訝しげな視線を向けられ、彼女は微笑む。
「昔のことを思い出していたのです」
「昔?」
 更に怪訝そうになったユンに、明姫は説明した。
「殿下と二度目に町でお逢いしたときのことですわ。私の実家へ挨拶に行くと仰せになった殿下をお連れした後、二人で殿下の隠れ家に行きました。そのときも、殿下が私にこうやっておん自ら食べさせて下さいました」
「そういえば、そんなこともあったな」
 ユンは何度も頷いた。
「何だか、あの頃がもう十年も前のような気がいたします。もう一度、あの隠れ家に行ってみたい」
 懐かしげに言うと、ユンが眉をひそめた。
「明姫。あれはまだ一年余り前のことにすぎにないのに、何故、そのようなことを? そなたの言葉を聞いていると、まるで、もうあそこには二度と行けないと思い込んでいるようだ」
 明姫は眼を見開いた。
「別に深い意味があったわけではありません。ただ、今、あの隠れ家はどうなっているのかと思ったのです」
 その言葉に、ユンは少し納得したようだった。
「ここ数ヶ月ばかり、町にも出ていないからな。民情視察には、町に出て実際にこの眼で民の暮らしぶりを見るのがいちばんなんだが。明姫、また一緒に町に出かけよう。私も隠れ家のことは気になっていたし、近い中にそなたを連れて行くとしよう。折角だから、そなたの手料理も食べてみたい。是非、作ってくれ」
「ふふ、私の手料理ですか? それならば殿下にはお覚悟して頂かなくては。ちゃんと内医院から胃薬も貰っておいて下さいね?」
「おいおい、冗談もきつすぎるぞ。それとも、先刻の言葉は真なのか?」
 恐る恐る窺うように問うユンに向かい、明姫は弱々しい笑みを浮かべた。
 その力ない笑顔に、ユンは一瞬、胸をつかれた。これが少し前までだったら、明姫は彼の発したつまらない冗談に、弾けるような笑い声を立てていたはずだ。
 つまり、もう笑うだけの気力も体力もないのだ。
―このまま明姫をここに置いておけば、遠からず力尽きてしまうだろう。
 ふと感じた何気ない予感はしかしながら、すぐに現実を伴って彼の脳裏を占拠した。
 義禁府の拷問は残酷極まりないことでも知られている。様々な責め道具を使い、罪人が罪を白状するまで容赦なく責め立てる。ゆえに、冤罪で連行された罪人ですらも、あまりに過酷な拷問に耐えきれず、早く楽になりたいと犯してもいない罪を述べ立ててしまうことも少なくはない。
 逆に言えば、誰かに無実の罪を着せようとする者にとっては格好の場所でもある。
 ユンは大妃が何故、明姫を異常な速さで義禁府に移したかを今更ながらに知った。
 しかし、今の明姫の弱りようを目の当たりにしていたら、拷問を受けるまでもなく衰弱死してしまうのではないかと危ぶまれる。また、健康で屈強な大の男ですら、生命を落とすといわれる過酷な拷問に、これだけ弱った少女が耐えきれるとは思えなかった。
 粥は半分ほど食べたところで終わりになった。
「申し訳ございません。これ以上は、どうしても無理のようです」
 殿下の御前で吐いてしまっては、ご無礼になりますと、消え入るような声音で告げた彼女に無理強いはできなかった。
「それに、お慕いするお方には、最後まで無様なところは見せたくないのです。女心なので、お察し下さい」
 ひそやかに笑った明姫を、ユンは抱きしめたいと思った。
「何故、そなたは最後などと口にする。そなたを失って、私が生きてゆけるとでも?」
「殿下。どうかお心を強くお持ち下さい。殿下はこの国の王におわします。たかだか女が一人お側から去ったとて、お心を迷わせてはなりません。私の願いは殿下が後々まで語り継がれるような偉大な王となって下さることなのです。ゆえに、殿下にはこれから何があろうと、本来殿下がまっとうなさるべき王としての道を歩いていって頂きたいのです」
「―」
 ユンはもう何も言えなくなった。
「失礼かもしれませんが、最後にこれだけは言わせて下さい」
 明姫が小さく胸を喘がせる。
「大丈夫か?」
 大丈夫というように頷き、彼女は小さいけれど、はっきりとした口調で言った。
「―愛しています」
「―明姫」
 今度はユンがヒュッと息を吸い込んだ。
「このような身を殿下に慈しんで頂き、本当に幸せでした」
 その声音には微塵の恨みもなかった。ただ静かな諦めが宿っていた。
―明姫は死ぬ気だ。
 ユンは唇が切れるほど強く噛みしめた。