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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 夢の中の出来事だと最初から判りきっているのに、怖ろしさに叫び出しそうになってしまう。それも常のことなのだ。
 ああ、飲み込まれる!
 明姫は固く眼を瞑り、今夜こそは巨大な焔に飲み込まれてしまうのだと覚悟した。不思議なことに、幼い頃から繰り返して見てきた忌まわしい夢ではあるけれど、あの追いかけてくる焔に飲み込まれたことは一度たりともない。
 だが、今夜は違う。きっと自分はあの意思を持った生き物のような焔に呑み込まれ、頭からばりばりと食い尽くされ灼き尽くされてしまうに違いない。
 もう一度、振り向いた時、焔はいよいよ迫りつつあった。
 と、突如として誰かが呼ぶ声が聞こえてきた。
「明姫、明姫」
 明姫は眼を開いた。濃い翳を落とす長い睫(まつげ)が細かく震え、棗(なつめ)型の瞳がぱっちりと開く。
 ぼんやりと白濁していた視界がゆっくりと鮮明になってゆく。次いで、霞みがかかったような意識が急速に醒めていった。
 明姫は壁に背を凭れさせて座り込んで眠っていた。狭い牢内には寝床になる藁すらない。
 十月とはいえ、夜は急に気温が下がる。薄いチマチョゴリだけでは忍び寄る寒さを防げず、明姫は身体を丸めるようにして曲げた膝を両手で抱え顔をその上に伏せていた。
 寒さのあまり、歯がカタカタと鳴りそうで、到底眠るどころではなかったのに、やはり連日の取り調べや何やらで疲れていたのだろう。いつしか知らない間に浅い眠りに落ちていたようである。
 ここは義禁府の牢である。似たような室が狭い廊下を挟んで並んでいるが、連れてこられたときには、既にどの室にも人影は見当たらなかった。
 明姫は、中殿さまを畏れ多くも毒殺しようとした大罪人ということになっている。そのような大罪人を他の者と一緒にしては、また何の悪巧みをするか知れずと警戒されたらしい。
 ご丁寧に明姫が連れてこられる前に、他の囚人たちは別棟の牢に移したのだ。それを知った時、明姫は嗤った。
 自分が王妃を毒殺しようとしたと皆が本気で信じているのがおかしかった。自分のことを周囲がどう呼んでいるかは知っている。
―国王殿下を色香で籠絡した女狐、妖婦。
 それはユンがあまりにも明姫一人に溺れ、熱愛しているからではあった。だからといって、ユンが政をなおざりにしているわけでもなく、国務に支障が出ているわけではない。明姫が閨でねだり言をするわけでもない。
 なのに、妖婦呼ばわりされるのは、ユンが明姫一人を守り、他の女を近づけないからだ。
 皆は夜毎、寝所で彼女が手練手管を駆使して、若い国王を骨抜きにしていると思い込んでいる。王が別の妃の許に行こうとすれば、泣いて縋って足止めするのだと真しやかに囁き合っている。
 事実はまさに正反対、明姫は事あるごとにユンに、自分だけではなく中殿や他の二人の側室たちの許で夜を過ごして欲しいと懇願しているのに。
「―殿下」
 明姫は立ち上がろうとして、目眩を憶えた。一瞬ふらついたところ、辛うじて壁に手を突いて身体を支えた。
「明姫!?」
 ユンが牢に填った格子に取りついた。
「大丈夫か?」
 しばらく眼を閉じてそのままでいた明姫は、やがて眼を開いた。微笑んで頷いて見せる。
 今夜のユンは龍袍ではなく、群青色のパジを纏っている。深みのある蒼が端正な面を際立たせていた。なるほど外見だけでもこれだけ美麗で凛々しく、更に国王という至高の地位にある男であれば、女は皆、その腕に抱かれたいと願わずにはいられないだろう。
 そして、その御子を宿し、未来の国王の母となることを夢見るのかもしれない。
 宮殿内の誰もが明姫もまたそうなのだと誤解している。
 私はただ殿下のお側にいられるだけで満足なのに。もちろん明姫も女だから、愛する男の子を産み、育ててみたいと思う。でも、それは純粋な女心からであって、間違っても自分の生んだ子を世子に立てたいなんて考えもしない。
 何故、皆、自分の気持ちを理解してくれないのか。自分を放っておいてくれないのだろう。
 彼女にはその理由が嫌になるくらい判っていた。それは自分の愛した男が国王だからだ。
 もしユンが市井に生きるごく普通の男であれば、こんなことにはならない。明姫がユンに幾ら愛されようと、彼女がユンの子を産もうと、気に留める者はいないだろう。
 でも、彼を愛したことに後悔はない。もし彼とめぐり逢ったことで、この生命を奪われるというなら、自分は従容として宿命(さだめ)に従うのみ。今の自分を後悔したら、彼と出逢ったこと、彼と過ごした幸福な日々をも否定することになってしまう。
 天の神さまは自分に過ぎたほどの幸せな時間をくれたのだ。本来なら、出逢うこともない彼と出逢い、恋に落ちた。それだけでも奇蹟のような幸運ではないのか。その代償として神が自分の生命を奪うというのなら、それも仕方のないことだと思う。
 明姫は哀しい想いで、美しい国王をしみじみと眺めた。義禁府に拘束されて、もう三日が経っている。もちろん、三度の食事は薄い粥が運ばれてくるけれど、食欲など湧くはずもない。
 いつも殆ど手つかずで返していたから、身体はどんどん衰弱していくばかりだ。
 明姫はまた倒れてユンを心配させないようにと、今度はゆっくりと歩いた。狭い牢の隅から隅までが随分と遠い距離のように思える。気力と体力を振り絞って漸く格子戸の前に来ると、くずおれるようにへたり込んだ。
「このような場所にお越しになってよろしいのですか?」
 微笑んで彼を見上げると、ユンは絶句した。
「そなたという女は。自分がこれだけ弱っているというのに、まだ私の身を案じるのか?」
「私なら大丈夫です。ただ、立ち上がることがどうしてもできないので、このまま座ってお話し致しますが、どうかご無礼をお許し下さい」
「明姫―」
 ユンの声が震えた。幾筋もの涙がユンの頬をつたい落ちていった。
「どうして、こんなに弱ったのだ? 食事は食べているのか」
「はい、私は食欲旺盛なのだけが取り柄ですから」
 明姫は義禁府に来る前と同じ科白を繰り返した。しかし、ユンは見てしまった。
 彼女の今、座り込んでいる傍らに、小さな丸盆が放置されているのを。盆の上の小さな碗には殆ど食べていない粗末な粥が載っていた。
「嘘を言うな。そなたはここに来てから、まともに食べていないはずだ。だから、こんなに歩けないほどに弱ったのだ」 
 ユンは呟くと、洟を啜った。
「情けない、大の男が惚れた女の前で泣くとは。どうも、そなたには格好良いところを見せようとしても上手くいかないらしいな」
 少し戯れ言めいて言ったのは、沈んだ空気をわずかなりとも明るくしたかったから。ユンらしい優しさだった。
 明姫は微笑み、自分のチョゴリの袖を少し引き裂いた。
「明姫?」
 眼を丸くしているユンに、彼女は布きれを差し出す。
「これをお使い下さいませ。綺麗な手巾(ハンカチ)などありませんので、失礼かとは存じますが」
「ありがとう」
 ユンは頷き、布きれで溢れる涙をぬぐった。彼は涙をふくと、その布きれを後生大切な宝物のように袖に入れた。
「そうだ、私も忘れない中に、渡しておこう」