何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
中宮殿にいたのは四半刻ほどだったが、当たり障りのない会話をしただけだ。もちろん、王妃が側室である明姫が今回の件で義禁府に囚われの身となっていることを知らないはずがない。
だが、利口な王妃は何も口にせず、ユンもまた敢えて触れることはなかった。今回の明姫を陥れる陰謀に王妃は荷担していない。流石に冷淡な女でも、姑にして叔母である大妃が―更に父親までもが共謀して自分に毒を盛ったと知れば、かなりの衝撃を受けるに違いない。余計なことを王妃に告げる必要はなかった。
中宮殿を出てから、そのまま大妃殿に向かった。大妃は先日の件に激怒しているらしく、最初は気分が悪いとか何とか言って取り合おうともしなかった。
が、ユンが別室で辛抱強く一刻余りも待ち続け、ついに根負けして姿を現したのである。
―ではあったが、やはり逢わない方が良かったのかどうか。結局、冷静に話し合うつもりなのに、先日の口論の続きになってしまった。
―あの女が宮殿に参ってから、ろくなことが起きぬ。
大妃にそう決めつけられ、ユンは怒り心頭に発した。
―それは、どういう意味ですか?
大妃の言いたいことの想像はついたが、ユンは問い返さずにはいられなかった。
―?昭容が死産したではありませんか。あれもやはり、あの女のせいに違いありません。
当然というような口調に、ユンは負けずに言い返した。
―母上は?昭容の生んだ王女が亡くなったことまで、明姫のせいになさるのですか!
―当然でしょう。やっと授かった大切な御子だったのですよ? 王位を継げる王子ではなかったが、私にも初めての孫になるはずでした。私なりに愉しみにしていたのに、あの女のせいで、すべてが台無しになった。あの女が来てから、昭容は死産するし、中殿は毒を盛られて瀕死の憂き目に遭うし、ろくなことはない。
ユンは膝の上で握りしめた拳に思わず力を込めた。
当の自分が王妃に毒を盛った癖に、よくもぬけぬけとそのようなことを! 我が母ながら、信じられず呆れ果てた。
確かに?昭容が四日目にやっと出産を終えたときには、ユンも心から安堵した。産気づいてからずっと産殿に駆けつけて朗報を待っていたのに、なかなか知らせは届かず、気を揉んだのだ。
たった一度の交わりで?昭容が懐妊したと聞いたときは、本当か? と信じられない想いであったが、世の中には往々として、そのようなこともあると知った。しかも?昭容は初めて男を受け容れたその夜だった。
愛してはいないが、たった一度きりで身籠もったとあれば、やはり浅からぬ縁であったのかもしれない。そう思い、また二十一歳で初めて父となると思えば、やはり嬉しかった。
懐妊が判ってからは、時には?昭容の殿舎を訪れ、健康に良いと侍医から聞いて共に庭園を散策したりもした。
流石に明姫を側室として宮殿に迎えてから、昭容の許を訪ねる回数は減ったけれど、それでも十日に一度は訪ねていった。
―私も生身の女でございますから。
義禁府に連行される途中、明姫が放ったひと言はユンとっては意外であった。嫉妬などとはおよそ縁のない女であると思っていたのに、やはり、自分が他の妃たちの許を訪れているのを見るのは辛かったのだろう。
だとすれば、明姫が後宮を下がっている間、大妃の命令とはいえ、二人の側室たちと関係を持ったのは、明姫には耐え難いことだったのかもしれない。ただ慎み深い性格のため、表には出さなかったか、或いはユンを困らせてはならないと黙って耐えていたのだろう。
いじらしいと思う。自分も生身の女だから、人並みに嫉妬もするのだと言われて、怒るどころか、かえってそこまで惚れられていると思えば嬉しい。そう思うのは、やはり自分が明姫に腑抜けているからだろうか。
明姫をそこまで哀しませるのであれば、やはり側室たちと関係を持つべきではなかったと今更ながらに後悔もする。その一度の交わりで身籠もった昭容には申し訳ない話だが。
ユンの初めての子を宿した昭容は、これ見よがしに大きな腹を突き出して後宮内を闊歩していた。恐らく明姫も何度かは見かけたやもしれず、一体、どんな想いで大きな腹をした昭容を眺めていたのか。
それでも、昭容の生む子は彼にとっては初めての子であり、王室の待ち望んだ赤児であった。むろん王子であれば幸いであったが、ユン自身は男でも女でも健康な子であれば良いと考えていた。
しかし、月満ちて四日がかりの難産で生まれた赤児は、既に息絶えていた。侍医の診立てによれば、恐らくは出産の過程で息絶えたのではないかということだった。
物言わぬ赤児を抱きながら、ユンはひっそりと涙を流した。これで自分も漸く人の親になれるはずだったのに、赤児は泣き声を上げることもなく遠い場所に旅立った。
昭容の落胆ぶりは烈しく、ユンから赤児を奪い取るようにして抱きしめ、号泣していた。自身も大出血を来たし、生命を失いかねない状態でやっと産み落とした赤児が死んでいた―。母親ならば、誰もが嘆き哀しむだろう。
加えて、この赤児はこれからの昭容の後宮における限りない栄華を約束してくれる象徴でもあったのだ。
王女といえども、国王のただ一人の御子。その生母の立場は強いものになったに相違ない。
しかし、赤児は天に召され、昭容は生きる気力を失った。難産は彼女の体力を根こそぎ奪い去り、赤児は彼女の魂をも共に持って逝ったようにも思える。最早、彼女は殆ど寝たきりで、たまに気分の良いときは枕を赤児のように腕に抱き、子守歌を歌っているという。
可哀想なことをしたと、その話を耳にしたときは思った。愛してもいないのに抱いて、孕ませた。せめて子が無事に生まれていれば、昭容もこれから生きていく気力も甲斐もあったに違いない。
明姫という生涯の想い人を側室として迎えた今、ユンは二度と他の女を抱くつもりはなかった。子を失い、良人の関心を失った女。せめて、健康を回復できるように治療を尽くさせるくらいしか、もうユンにしてやれることはない。
これ以上、母と何を話しても無駄だと悟り、ユンは早々に大妃殿を後にした。
あの女、あの女。母はいつもすべてを他人のせいにする。自分の不幸は他人のせいだと決めつけるが、現実はどうなのか。父王に疎まれたのも、その権高さと嫉妬深さゆえだと何故、気づけないのだろう? その挙げ句、逆恨みした者を―ユンの大切な人たちを排斥しようと空恐ろしい陰謀を企てようとする。
ユンは長い物想いを振り切るように頭を軽く振った。摘んだばかりの一輪の花を袖にしまい、内官たちの方に向かってゆっくりと歩き始めた。
その時、広い池の水面を秋の風が通り抜けた。気まぐれな秋風は池の面に波紋を作り、ほとりに咲く桔梗の花を揺らしていく。
その拍子に、雫を戴いた花びらがふるりと震え、雫がまるで涙を零すように地面に落ちた。
ユンの一行が立ち去った後も、池はまだしばらくさざ波立っていた。
明姫は懸命に走っている。果てのない漆黒の闇の中を駆けているというのに、何故か前へと全然進まない。
ふと背後を振り返り、悲鳴を上げる。真っ赤に燃え盛る紅蓮の焔が彼女に近づき、今にもすっぽりと飲み込まれようとしている。
ああ、また、いつものあの夢だわ。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ