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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 彼女は静かな微笑みを浮かべていた。身の芯も凍らせるような、凄みのある冷ややかな微笑を。
「すべては思いどおりになった」
 満足そうに低い声で呟いた。
 そのひと言に、明姫のこれまでずっと抑えていたものがプツリと音を立てて切れた。
「これで、ご満足なさいましたか? 大妃さま」
 大妃は美しく整えられた爪先を揃え、ホホと口許に当てて含み笑う。
「そなたごとき女がこの私にようも怖れ知らずな口をきくものだ。その度胸の良さだけは褒めてやらねばなるまいのぅ」
 それとも、と、大妃は陰にこもった笑声を上げる。
「それとも、単に礼儀というものを知らぬだけの愚かな小娘なのか?」
 明姫は怒りを押し殺し、顔を凜と上げて大妃に告げる。胸に手を当て、瞳に力を込めた。
「私は天に誓って、中殿さま殺害を企てたりは致しておりません。大妃さま、たとえ私を卑怯な手段で陥れようとも、天だけはすべてをご存じです」
「ハッ」
 大妃は鼻で嗤った。
「何を申しておるのやら。私にはまるで負け犬の遠吠えとしか聞こえぬが? それにしても、主上はおなごを見る眼というものがまるでない。このような下賤で無礼な女をお側近くに置いて人眼もはばかるほどご寵愛なさるとは、母として嘆かわしい限りだ」
「大妃さま、良い加減になさいませ。たとえ大妃さまといえども、これ以上、私の妃を人前で愚弄なさることは、この私が許しません」
 大妃は細い眉をきりりとつり上げた。
「殿下、それが実の母に対する物言いですか? 第一、何故、母上と呼ばず大妃と呼ぶのです?」
 王は殺気じみた剣呑な気配を纏ったまま、大妃に低い声で言った。
「私があなたを母と呼ぶ理由がどこにあるのでしょう? あなたはいつも私の大切なものを奪ってゆかれる。そして、無残に殺すのです」
「殺す? 人聞きの悪いことを言うものではない。そこの金淑媛は中殿を毒殺しようとした極悪人なのですよ? 仮にも一国の王妃を側室が毒殺しようなど、あまりにも怖ろしい出来事ではありませんか。その女は法によって裁かれ、当然の報いをその身に受けるのです」
 王が声を戦慄かせた。
「中殿暗殺のこの一件がすべては大妃さまの仕組まれたものであると、この私が気づかないとでも?」
「フ、何とでも仰せになるが良いでしょう。殿下が何をどう仰せになろうと、淑媛が罪人であることは周知の事実です。これから先は、国法がこの不届きな大罪人を裁いてくれる。最早、私の関知するところではない」
 大妃はそう言うと、明姫をにらみ付けた。そのまなざしの烈しさは、明姫すら鳥肌が立つほどのものだった。
 何故、自分がここまで憎まれねばならないのか? 理不尽さは募ったけれど、大妃にとってユンはそれほどまでに手中に収めておきたい息子なのかもしれない。単に家門繁栄のため、ペク氏の娘に次の王となる王子を生ませたいというだけではないのだろう。そう自分に言い聞かせた。
「そなたのせいで、我が息子はこの母を最早、母とも呼ばぬ。この怒りはそなたがこの世から消え去ったとしても、なくなるものではない」
 大妃はゾッとするような声音で言い残すと、踵を返して歩み去った。少し離れた場所で待機していたお付きの尚宮や女官たちが慌てて大妃の後を追う。
 公衆の面前での大妃と国王、更に側室を交えてこの諍いは、後々、後宮はおろか宮殿中にひろまり、噂好きの宮廷雀たちの格好の話の的となった。
「殿下、義禁府の兵士たちも待っております。ここはどうぞひとまず大殿にお戻り下さい」
 見かねた黄内官が近寄り、王に告げた。ユンは我に返り、頷く。
「―判った」
 切なげなまなざしを明姫にくれる。
「もう行くよ」
「はい、殿下」
 せめて今は笑顔でユンを見送りたい。哀しみを堪えて微笑む明姫の顔は笑っているような泣いているような歪んだものになってしまった。
「明姫」
 思わず明姫を抱き寄せた国王の姿を黄内官は眼を丸くして見、周囲にいた人々は一様にざわついた。
「どんなことがあっても、生きる望みを失うな。必ず私がそなたを助けるから」
 抱きしめた明姫の耳許で切なげな声が囁く。
「殿下。私のことはもう―」
「そなたが私の側にいたくないのだとしても、私にはそなたが必要なのだ」
 ユンは早口で言い、素早く明姫から離れた。
 後は潔く背を向けて立ち去っていく後ろ姿を茫然と見送る。いつも王の側にいる黄内官が明姫にそっと会釈してから王の後に続いた。

 切ない口づけ(キス) 

 宮殿の庭園は広大である。ユンは今、池のほとりに一人佇み、ぼんやりと静まり返った水面を見つめていた。
 池のほとりには数本の桔梗が身を寄せ合うようにして咲いている。ひっそりと咲く花は牡丹園の牡丹のような派手やかさはないが、何故か心惹かれる。
 一晩中降り続いた雨は、朝になって止んだ。桔梗の花びらが雨露の雫を帯びている。まるで、花がひっそりと泣いているように見えた。
 明姫は日毎に美しくなってゆく。無垢な少女が彼の愛を得て少しずつ蕾が綻ぶかのように開いてゆく。
 ひとひらの薄紫色の花片を水に落としたような風情があった。
 この花はまるで明姫のようだな。
 心で一人ごち、そっと腰をかがめて、薄紫の可憐な花を手折る。もしこの場に彼の愛する女がいたなら、きっとこう言うだろう。
―殿下、折角綺麗に咲いているのに、可哀想なことをなさってはいけませんよ。
 と。
 思えば、明姫と初めてめぐり逢ったのも、この近くだった。あれは一年半前のことだ。緋色の牡丹が燃えるように咲いていた春たけなわに、彼らは出逢った。腕一杯に桜草を抱えていたユンと書物を運んでいた明姫がまともにぶつかったのだ。
 あの時、花が取れたり折れたりした桜草を一本一本拾い集めていた明姫。部屋に戻ってから、水に活けてやれば、まだまだ元気になって眼を楽しませてくれるだろうと明るく微笑んでいた。
 あの時、惹かれたのは、けして見かけの可憐さや美しさだけではない。あの心の優しさに真っ先に打たれたのだ。
 王の移動には宮殿内においても黄内官や尚宮が付き従い、長蛇の行列ができるものだ。今、内官や女官たちはすべて少し離れた場所に待機させている。
 一人になりたいときは、そうやって少し彼等と離れるしかない。王とは不便なものだとつくづく思う。誰だって一人になって考え事をしたいときもあるのに、その自由すらない。
 ユンはたった今、中宮殿と大妃殿を訪ねて帰る途中であった。突如として嘔吐や下痢に苦しんでから五日、既に王妃は体調をほぼ回復し、普段通りの生活を送っている。
 まだ若いため、回復の度合いも早いのだと侍医は語っていた。
 王妃が健康を取り戻したことで、ユンは漸く少しだけ愁眉を開いた。心の通わない形だけの夫婦ではあっても、王妃が妻であることに変わりはない。
 最悪の場合、ユンは王妃と明姫の両方を失っていたかもしれないのだ。それにしても、我が母ながら、大妃は怖ろしい人だと思う。
 娘のように可愛がってきた王妃をも己れの目的を遂げるためには平然と利用し切り捨てられる。どうして、そこまで冷徹になれるのか、ユンには皆目判らない。