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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 町医者は亡骸の首筋を指し示し、
―ここにその痕跡がくっきりと残っております。
 なるほど立ち会った楊尚宮にも、手形のような跡がはっきりと確認できた。更に、医者は恐るべきことを告げたそうだ。
―この者は首を絞められる際、かなりの抵抗をしたものと思われますな。
 成女官の両手の爪には木の床やら人の膚やらがかなり付着していた。これは殺害されたときに彼女が抗い、床や殺害しようとする者をひっかいたことを示す。
―成女官を殺した者は外部の者とは思えません。恐らくは後宮の大妃さまに仕える腹心の女官と思われますから、身体のどこかに引っかき傷のある者を探せば、犯人も自ずと明らかになるでしょう。
 しかし、実際には何千といる女官―上は上職の尚宮から下は水くみ女まですべてを調べることは不可能だ。楊尚宮は無念そうに呟いた。
 これで大妃の陰謀はいよいよ明白になった。自分のせいで、成女官の生命が奪われたのだと思うと、明姫は何ともやり切れない想いになった。もちろん、これは成女官自身が招いた自業自得のなりゆきではあるが、それでも、明姫と拘わることがなければ、彼女にはもっと別の人生が待っていたことだろう。
 明姫はふと空を振り仰いだ。
 いつしか雲が薄くなってきて、時折太陽の兆が感じられる。今にも降り出しそうなほど暗く淀んでいた空に晴れ間がひろがり始めていた。今、空の大方は蒼く澄んで、十月初旬の秋空が涯(はて)なく続いている。
 空が高い。そう、天はあんなにも果てしなく遠く、高みにあるのだ。でも、たとえ人の手の届かない遠い場所にある天だとしても、きっと私の無実は知っている。誰もが私を罪人扱いしても、遠い天だけはちゃんと見ている。真実を知っているはず。
 殿下、どうかこの都を覆う蒼空のように、民草を労る政治を行って下さい。殿下が後世の人々から聖君と呼ばれ日が来ることを明姫は信じております。
 そう、今、漢陽の町の上にひろがるこの蒼穹こそが、明姫の殿下への心です。この肉体がこの世から消え去ったとしても、殿下をお慕いする私の心はいつも殿下のお側にとどまっているでしょう。そして、何度でも生まれ変わります、ただ一人の方に―李胤というお方に巡り逢い恋に落ちるために。
 その時、背後が俄にざわついた。明姫が何事かと振り向いたその先に、たった今、瞼に思い描いた恋しい男が佇んでいた。
 ユンの端正な面が強ばり、哀しみの色に染まっている。明姫はこんなときなのに、今すぐに駆け寄ってユンを抱きしめたい衝動を堪えた。
―何故、何もいわずに去っていくのだ。
 ユンの瞳が哀しみに揺れている。
―私はそなたにとって、それほど頼り甲斐のない男なのか、惚れた女一人を守れぬ、それほどに力のない王だとそなたは思っているのか?
 悲痛な声が心に響いてくる。
 殿下、どうか、私の気持ちをおくみとりあそばして、聖君としての道を真っすぐにお進みください。
 明姫はユンに向かって微笑みかけた。
 ユン、あなたに出逢えて、私は幸せだったわ。最後は出逢った頃、まだ彼が国王だとは知らず、ただの学者だと信じ込んでいた頃のような口調で話しかけた。
 この呼びかけは彼に届いているだろうか?
 届いていると良いと、いや、きっと届いていると信じた。
 さようなら、ユン。
 明姫が静かに彼に背を向けた時、ユンが叫んだ。
「行くな!」
 それでも行列は止まらない。
「明姫、行くな」
 王衣姿のユンは大股で行列に近づいてきた。国王の姿を認めた義禁府の役人たちが皆、その場にひざまずく。
「しばらく淑媛と話がしたい。そなたたちは下がっておれ」
 国王が義禁府へ護送中の罪人と話をするなど、前代未聞である。一瞬、兵士たちは顔を見合わせたが、責任者らしい男が頷き、皆数歩後ろに下がって控えた。
「殿下」
 慌てて追いかけてきた黄内官が気遣わしげに呼ぶが、ユンは振り向きもしなかった。
 しっかりとした、どこかに烈しい感情を抑えているような歩き方で、こちらに向かって歩いてくる。
「明姫」
「殿下」
 白いチマチョゴリ姿の明姫を見て、ユンは何かに耐えるような表情になった。
「少し痩せたのではないか? 食事はちゃんと取っているのであろうな」
 心配そうに真顔で問われ、明姫は頷いた。
「大丈夫です。私は食欲旺盛ですから」
「ああ、そうだったな。いつか町の隠れ家で食事をした時、そなたがあまりに大食漢なのを知って正直、愕いた」
 そなたときたら、大きな揚げパンを立て続けに二つも頬張っていた。
 ユンは呟くと、泣き笑いの顔になった。
「殿下、私は」
 明姫が言いかけるのを、ユンは遮った。
「何も申すな。こたびのことを私はそなたが企てたなどとは思ってはいない。そなたが中殿を呪詛したり、あまつさえ毒を飲ませるような卑怯な真似をするはずがない」
 違うのです、と明姫は真摯な瞳をユンに向けた。
「確かに私は中殿さまを呪詛もしておりませんし、毒を盛ったりもしておりません。ただ」
 と明姫は声を潜めた。
「ただ、私の中に中殿さまを羨ましく思う気持ちがなかったとは言えません」
「―明姫。それはどういう意味だ」
 ユンが不安げなまなざしになるのに、明姫は微笑む。
「中殿さまは生まれながらに殿下の妻となることを運命づけられているお方です。でも、私は誰が見ても、殿下にはふさわしくない。力のある家門の娘ではありませんし、女官上がりの平凡な娘にすぎません。私が殿下にふさわしい女であれば、きっと今回のようなことも起こらなかったと思うのです」
 だからと、明姫は哀しげに笑った。
「私は中殿さまを羨ましいと思っていました。いつも殿下のお側に当たり前のようにいることができて、誰もに祝福されて殿下の妻となられた中殿さまを心のどこかで妬ましいと思っていた」
「済まない。私が不甲斐ないばかりに、そなたを辛い目に遭わせた」
「いいえ」
 明姫は首を振った。
「殿下のお立場であれば、それは仕方のないことです。私自身、それを承知で殿下の御許に上がりました。でも、心でそう割り切っていても、感情がそれを裏切るのです。殿下をいつも独り占めしていたい。ずっとお側にいるのが自分だけなら、どんなに良いかと考えてしまうのです。そういう意味で、私はやはり罪深い女なのかもしれません」
「愕いた。そなたはいつも楚々として、嫉妬や妬みなどとは無縁のようだった。それゆえ、正直、もう少し妬いて欲しいものだと物足りなく思ったくらいなのに」
 ユンが意外そうに眼を見開く。
 切迫した状況のこの時、呑気に話している内容ではないかもしれない。
 明姫は苦笑でそれに応える。
「私も生身の女でございますから」
 良人が他の女の許にゆけば、心は波立つし、晴れて恋しい男の隣に立つ中殿を羨ましいとも思う。
 と、ふいにユンの表情が変わった。明姫は訝しく思いながら、小首を傾げる。
「母上、いえ、大妃さま。一体、何用で今更、このような場所においでになったのですか?」
 王の表情は険悪だった。その声は押し殺した怒りに震えている。
 明姫が後ろを振り返ると、彼の眼は明姫を通り越して大妃を見ていたのだと気づく。
 大妃はゆっくりとこちらに歩いてきた。明姫のむこうのユンに視線を合わせたままだ。