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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 義禁府は王命によって重罪人を取り調べる部署である。監察部に身柄を留め置かれる間は、あくまでも後宮内の出来事であり、内命婦の問題で済むが、ひとたび義禁府に移されれば、文字通りの?大罪人?として国法に則って裁かれることになるのだ。
「このたびは大妃さまと領相大監(ヨンサンテーガン)がお決めになり、淑媛さまの身柄が義禁府に移された後、殿下にはご報告があるという風に聞きました」
 ダンッ。突如として大きな音がして、流石の黄内官も愕きに眼を瞠った。ユンが執務机に拳を思いきり打ちつけたのだ。
「殿下、血が流れております」
 あまりに力を込めたため、ユンの左手には薄く血が滲んでいた。黄内官が狼狽えて駆け寄るのに、ユンは片手を上げて制した。
「私は傀儡の王ではない。父上のように伯父上や母上の言いなりにはならない」
 ユンはやおら立ち上がった。
「これから監察部に行く」
「殿下! ですが」
「もう私を止めても無駄だ、黄内官」
 乾いた声で言うと、黄内官は懸命な面持ちで言った。
「しかしながら、殿下。私は監察部の楊尚宮より聞きました。その淑媛さまのお言葉をお聞きになっても、殿下はまだ監察部に行かれるというのですか!」
「そなたが一体、何を聞いたというのだ」
「今朝、楊尚宮がもう殿下にお縋りするしか淑媛さまが助かるすべはないと進言した時、淑媛さまは?私のことは放っておいて下さい、そう殿下にお伝えして欲しい?とおっしゃったそうなのです」
「明姫が私に放っておけだと?」
 ユンの切れ長の双眸が黄内官を射るように一杯に見開かれた。
「私が拝察致しますに、淑媛さまは既にお覚悟を決められているのではないでしょうか。幾ら無実とはいえ、これだけの状況証拠が出ており、加えて、監察部で淑媛さまが今回の首謀者だと証言した女官も今朝方、自害したそうで―」
 ユンが息を呑んだ。
「何と、直訴した女官が自害したというのか?」
 黄内官は言いにくそうに頷いた。
「さようにございます」
「監察部は一体何をしていたのだ!」
 ユンは歯がみした。今回の中殿暗殺未遂のすべての鍵を握るのは、この女官に相違ない。この女官が大妃の意を受け、明姫を陥れるために画策したのは判っている。
 その肝心の女官が死んだとなれば、もう明姫の無実を晴らせる者はいない。死人に口なしという諺がふっとユンの脳裏を掠めた。
「母上はどこまで手を血に染めれば気が済まれるのだ」
 かつて彼が幼かった世子時代、姉のように慕っていた孔淑媛は父である先王の寵妃だった。その孔淑媛を大妃はとことんまで追いつめ、自害させた。
―殿下、私のことはもう放っておいて下さい。
 殿下はこの世を遍く照らす聖君として、そのお進みになる王としての道を全うなさって。
 明姫の声が聞こえてくるようだった。
 馬鹿な、明姫。私がそなたを失うのをおめおめと手をこまねいて見ていられると思うののか? そなたを手放すくらいなら、私は王位を棄てる。
 ユンは矢も楯もたまらず、大殿を飛び出した。背後で黄内官の声が聞こえていたが、もう後ろは振り向かなかった。

 中殿毒殺未遂という大罪を企てた張本人として、明姫はその身柄を義禁府に移されることになった。
 事件から二日後のことだった。既にそのときまでに内医院の侍医団から国王に報告が届いていた。
―真に残念ながら、今回の中殿さまのお食事には猛毒が混入されておりました。
 混じっていたのは致死量ではないが、それでも、かなりの量であったという。毒に耐性のない人が取れば、十分に死に至る可能性はあるだけの量だったと聞き、若き国王は衝撃を隠せない様子だった。
 事件の発生からわずか二日での義禁府移送は、過去の処遇に照らし合わせてみても、かなりに厳しいものであり、異例の速さで事が進んでいることは誰の眼にも明らかだった。
 監察部から引き出され、義禁府の兵に囲まれて護送される時、庭園には多くの女官たちが集まっていた。大方の者は不安を隠せず、また涙ぐむ者も少なくはなかった。
 特に金淑媛に仕える女官たちは、皆、手を握り合い、抱き合って泣いていた。
「淑媛さま、淑媛さま」
 ヒャンダンはあの日、明姫が監察部に連行されたときと同じように、義禁府の兵士たちに取り縋ろうとして邪険に突き飛ばされた。
 毅然として歩む淑媛の姿は、周囲の人々の眼にはどのように映じたのか。淑媛の味方ともいえる女官たちは別として、大妃殿や中宮殿の女官たちには、
―あれほどの怖ろしい悪事を働きながら、悪びれる風もないとは、何とも空恐ろしき女よ。
 と、その泰然とした態度すらも天を怖れぬ邪悪な妖婦としか映らなかった。
 その日は朝から鈍色の雲が幾重にも垂れ込め、都の上を低く覆っていた。この国の至高の存在である国王に一心に愛された幸せな少女は、一夜にして大罪人となったのだ。
 薄幸な少女を悼むかのように、空は今にも泣き出しそうに曇っている。
 庭園に佇み自分を見送る人の輪の中に、明姫は伯母の崔尚宮の姿を見た。
―私の小姫や。結局、私はそなたに何もしてやれない。無力な私を許してくれ。
 たとえ口には出さずとも、明姫には伯母の声が聞こえるようだった。
 伯母上さま、ごめんなさい。もしかしたら、先立つことになるかもしれない不幸を許してね。
 明姫もまた崔尚宮に淡く微笑みかける。
「まあ、何て不敵な娘なの! 畏れ多くも中殿さまを毒殺しようとしておきながら、見て、いまだに薄笑いなんて浮かべてるわ」
「本当ね。ああ、怖いったら、ありしゃしない。でも、これで良かったのかもしれない。金淑媛がこのまま殿下のお側にいたら、いずれ懐妊して王子を生むでしょう。あんな怖ろしい女が元子さまのご生母となり、国母さまになったらと考えただけで怖いわぁ。もしかしたら、今度こそ中殿さまを殺して、自分が王妃になろうとするかもよ」
 崔尚宮の背後で、大妃殿の女官たちがしきりに囁いている。崔尚宮はキッと後ろを振り向いた。
「このようなときに私語は慎むが良い。あまりに不謹慎であろう」
 叱責を受けた女官たちは肩を小さく竦めて黙り込んだ。
 見送りの最前列にいる崔尚宮の前を通る時、明姫はかすかに頭を下げた。ヒャンダンの泣き声がひときわ高くなる。
 ヒャンダン、これまで仲良くしてくれて、ありがとう。女官として後宮を一度は去った私が今度は国王さまの側室して帰ってくることになった時、本当は随分と勇気が要ったの。
 でも、あなたがいてくれたから、私は今日まで何とか恥をかかないで殿下のお妃としてやってこられたような気がする。
 ヒャンダンの泣き声が遠くなっていく。固く閉じた明姫の眼にも熱いものが滲んだ。
 泣いてはならない、泣くものか。無実の罪を着せられて、泣きの涙にくれながら後宮を出ていくなんて、それこそ惨めすぎる。
 私は罰せられるようなことは何もしていないんだもの。だから、前を向いて毅然として去っていくのだ。
 義禁府の兵士が身柄を引き取りにくる寸前、楊尚宮が再びやって来て教えてくれた。
 外部の町医者をひそかに呼んで成女官の亡骸を検めさせたところ、やはり死因は自ら首を吊ったときのものではなく、その少し前に誰かが彼女の首を絞めたからだということだった。