何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
中殿の容態はその後はどうなっているだろうか。昨日、中殿が突如として倒れてから、丸一日が経過している。昨夜には一度、報告はあって、そのときは比較的落ち着いているとのことだった。再度、遣いの者を出して―いや、やはりここは直接中宮殿を訪ねて見舞った方が良いだろう。
中殿の食事に毒が混ざっていたというのは、ユンにとっても大きな衝撃であった。今はその件について監察部が調査中である。監察部は女官で構成されているとはいえ、粒ぞろいだ。事実、これまでにも幾多の難事件を解決してきた実績もある。後宮内で起きた事件であれば、後宮の者に任せるのが最適だろう。
真偽が気になるところではあるけれど、今、いたずらに焦っても仕方ない。後は監察部の調査結果待ちだ。
もし中殿が落ち着いているようなら、今夜は明姫の許へ行こう。もしまだ中殿が思わしくないようなら、今夜も明姫の柔肌に抱かれて眠る愉しみは我慢しなければならない。
中殿の具合が悪いのにも拘わらず、自分が訪ねていけば、かえって明姫は恐縮し哀しむ。あれは、そういう女なのだ。だから、その優しさや人柄に余計に惹かれる。
いや、待てよとユンはそこで考える。たとえ中殿の具合が変わり映えしなくても、昼間に少しだけ明姫の顔を見にいくくらいなら、彼女もとやかくは言わないのではないか。
そうだ、それが良い。ユンは自分の導き出した考えに一人で満足して頷いた。
昨日一日、明姫の顔を見ていない。彼女のことだから、昨夜訪ねなかったことについて、いちいち言い訳をする必要もない。これが他の妃たちであれば、
―何故、お渡りがございませんでしたの?
と顔を見るやいなや、責め立ててくる。まったく堪ったものではない。
この書類の山を片付けたら、明姫に逢いにいこう。はや中宮殿に見舞いに行くことは忘れてしまっている国王だった―。
部屋の隅で畏まっていた黄内官が笑った。
「殿下、何か愉しいことをお考えなので?」
そこで、彼は自分が一人でにやけていたのを自覚した。わざとらしい咳払いをし、鹿爪らしい顔をこしらえる。
「いや、別に」
ユンは素っ気ない口調で言い、最後の書状に玉爾を捺した。
蜜色の夕陽が執務室の丸窓を通して室内にまで差し込んでいる。窓に填った格子模様をそのまま床に描いているのに興を誘われ、つい見つめていた。
「夕餉までには、まだ時間があるな、黄内官」
独り言のように呟くと、すぐにいらえが返ってくる。
「はい、十分にございますが」
「それでは、中宮殿に遣いを出してくれ。中殿の様子はどうかを私に伝えるように」
「畏まりました」
黄内官が頷いたその時、廊下で黄内官を呼ぶ若い内官の声が聞こえた。黄内官は恭しく一礼し、部屋を出ていく。
ややあって戻ってきた黄内官の顔は冴えなかった。この老齢の熟練の内官と若い国王は一対の鏡のようなものである。王の機嫌が良ければ内官もどこか嬉しそうだし、逆に王が落胆していれば、内官も愁い顔だ。
ゆえに、ユン自身もいつも側にいる内官の顔色には敏感に反応する。
「どうしたのだ、黄内官。随分と顔色が悪いぞ」
「はっ、実は」
黄内官は口を開きかけ、押し黙った。
「どうした、何があった?」
なおも問いかけられ、黄内官は覚悟を決めたようにひと息に言った。
「金淑媛さまがどうやら監察部に連行された模様です」
「なっ―」
王が立ち上がった拍子に椅子が不必要に大きな音を立てた。
「何故、淑媛が監察部に連行される?」
噛みつくように叫ぶ若い王を、黄内官は痛みに耐えるような顔で見つめ返す。
「淑媛さまに仕える女官が監察部に直訴に及んだとのことで」
黄内官は王の側に寄ると、低声で耳打ちした。
「そんな馬鹿な」
ユンの声が戦慄いた。歳の割には冷静で、物事には動じない王が蒼褪めている。
「淑媛が中殿を呪っていたと―、中殿の部屋の下から、その動かしがたい証拠が出たというのか」
そして、直訴に及んだ女官は、他でもない金淑媛が中殿毒殺を企んだと主張しているという。
「あれは、そのような女ではないッ」
ユンは声を限りに叫んだ。そうだ、明姫はそんなことを―王妃を呪うような娘ではない。世間的に見れば、確かに中殿は正妻で、明姫は側妾ということになるのだろう。
だが、ユンはそんなことを考えたことは一度たりともなかった。あくまでも正室は中殿ではあっても、明姫もまた?妻?だと、いや明姫こそが彼の本当の妻なのだと思っていた。
それは明姫がそう思うにふさわしい女だからだ。間違っても、中殿を妬んだり、そのために生命を奪おうとか呪詛しようとか邪な考えを抱く人間ではない。
そんな娘だからこそ、ユンはひとめで心奪われ、明姫を側から離したくないと思ったのだ。
「私も殿下とご同様に拝察つかまつりますが、さりながら、殿下。ここまで証拠が揃い、あまつさえ淑媛さまの命を受けて中殿さまの御膳に毒を潜ませたという者まで現れては、淑媛さまの立場はのっぴきならないものになってしまうのではと案じられます」
「明姫が囚われたのはいつだ?」
黄内官がハッとしたような顔になった。
「半刻(一時間)前のことと思われますが」
「何故、今まで黙っていた?」
ユンは両脇に垂らした拳に力を込めた。
「それは」
黄内官は口をつぐんだ。恐らく黄内官も知らされてはいなかったのだ。もし知っていたとしたら、誰よりもユンの心を理解する彼は伝えてくれていただろう。
「内命婦のことゆえ、殿下のお心をお煩わせするまでもないと判断されたようです」
「それは誰の判断だ?」
中殿はいまだ病床にある。中殿の指図とは考えられず、後、考えられるのは―。
ユンは溜息をついた。
「母上か?」
「さようにございます」
黄内官は静かに頷いた。
ユンは嫌な予感に囚われ、再度、老いた内官に訊ねた。
「明姫に中殿暗殺を命じられたと名乗り出た女官とは、どのような素性の者だ?」
「私も詳しくは存じかねますが、ふた月ほど前に大妃さまの強いお薦めがあって淑媛さまの御許で働くようになったと」
「―」
ユンは力尽きたように椅子に座り込んだ。これで辻褄が合う。母が強く薦めて仕えさせた新入りの女官、その女官が明姫が中殿暗殺の首謀者だと名乗り出た。そして、中殿の殿舎から見つかった証拠の品々。
まったく笑えるほど出来すぎた筋書きではないか!
だが、まかり間違えば、中殿は大妃の仕込んだ毒で生命を失っていたかもしれない。
―母上、あなたはここまでなさるのか。
血の繋がった姪の生命を危険に晒してまで、邪魔な者を排斥しようとするのか。
可哀想に、国王に愛されたばかりに明姫は執拗な大妃の憎しみの焔に灼き尽くされようとしている。
だが、そうはさせるものか。ユンの握りしめた拳が震えた。
「―これは周到に仕組まれた罠だ、黄内官」
黄内官からの返事はなかった。彼の立場では、王の母である大妃を表立って咎人呼ばわりはできないのは当然だ。
「私はこれから大妃殿に行く」
「はっ」
今度はすぐに返答があった。
「いや、まずは監察部だ。監察部に行って、明姫が無事かどうか確かめねば」
そのまますぐにでも飛び出しかねないユンの前に、黄内官が立ちはだかった。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ