何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
大妃殿からの推薦ということで、身元の詮索は敢えてしなかったけれど、成女官は元から女官だったわけではなく、宮殿に潜入するために一時的に女官になりすましたにすぎなかったのである。
しかし、彼女は途中で殺された。何故か? それは彼女はもう用済みになったから。すべては思惑どおりに運んだ。後はもう何もせずとも、明姫はでっち上げた中殿暗殺の嫌疑で処罰される。
「成女官の残した遺書を見せて頂けますか?」
一旦出ていった楊尚宮は、ほどなくして戻ってきて一通の書状を差し出した。
明姫は縦長の封筒からそれを取り出し、眼を通してみたが、別段不審な点はなかった。
内容としては、
―あまりに怖ろしい陰謀に荷担した罪の深さにもう生きてはいられない。この罪は死んで償わせて欲しい。
と記されていた。
「筆跡も成女官のものと一致しました。少なくとも、この遺書に関しては怪しむべきところはありません」
楊尚宮は静かに説明するが、筆跡などは似せようと思えば幾らでも似せられる。漢陽には、まるで当人が書いたとしか思えないほど同一の手蹟を書く名人はごまんといるし、それを裏商売でやって儲けている者も多い。
恐らくは今回もそういう専門家に書かせたに違いない。
間違いなく、彼女は自殺に見せかけ、口封じのために殺された。この時、明姫は確信を持った。
「哀れなことです」
思わず本音が呟きとなって零れ落ちた。
楊尚宮がハッとした表情で見つめてくるのに、明姫は哀しげに微笑んだ。
「成女官はまさか自分が途中で殺されるなどとは想像もしなかったでしょう。自分がうまく使命を果たせば、兄の出世や病気の母親のためになると信じて、この陰謀に荷担したのです」
確かに兄は仕官でき、母親も医者に診て貰えることができるようにはなったかもしれない。しかし、その代わりに彼女は生命というあまりにも大きな代償を支払うことになってしまった。
こうまでして追い払わなければならないほど、大妃は自分を憎んでいるのだ。
私が一体、何をしたというの? 明姫の眼に涙が滲んだ。
ただユンと知り合い、彼を好きになり彼の側にずっといたいと望んだだけなのに。それが、そんなにもいけないことだったのだろうか?
「私のために、人がひとり亡くなりました。こんなことは、あってはならないことなのに」
明姫の白い頬をひと雫の涙が流れ落ちた。
「淑媛さまのせいではございません」
楊尚宮の瞳には憐憫の情が浮かんでいる。
しかし、明姫にはそう容易くは割り切れなかった。
確かに成女官の死は明姫の罪ではない。彼女がたとえどのような甘い餌を示されたとて、怖ろしい謀に乗らなければ良かったのだ。だが、人の心は弱いものだ。ましてや、自分のためではなく、大切な家族のためになると甘い科白を囁かれれば、その気にもなるというものではないか。
大妃は、そんな人の心の弱さ脆さを利用して、成女官を使い捨ての駒にしたのだ。
「私が殿下のお側にいるということは、こういうことなのでしょうか、楊尚宮」
明姫自身だけでなく、側にいる誰かをも巻き込み、不幸にするというのだろうか。
明姫はユンの側にいられるなら、どうなっても良いという覚悟はある。しかし、周囲の人々はどうだろう? 明姫の我が儘のために、その身が危うくなるようなことがあるかもしれない。成女官のように生命を失うことだってあるかもしれないのだ。
もしかしたら、自分はこれ以上、ユンの側にいてはいけないのかもしれない。たとえどれほど彼を愛していようとも、自分が彼の側にいることで他の誰かがまた犠牲にならなければならないのだとしたら―。そこまでして、明姫が自分の願いを叶えて良いというはずがない。
それに、考えすぎかもしれないけれど、いつかもっと先、明姫のためにユンまで生命を狙われるようなことがあったりしたら? 大妃が実の息子であるユンを殺すことはない。しかし、明姫ばかりを寵愛するユンを疎ましく思った者が朝廷の臣下の中にいるとしたら?
領議政はユンの伯父ではあるけれど、あの男であれば、自らの言いなりになる傀儡の王を立てるためであれば、甥であり娘婿であるユンをも平然と殺すだろう。
即位したばかりの頃は領議政の言いなりになっていたユンも、もう幼い王ではない。二十二歳の早くも?聖君?と呼ばれ始めている英明な国王である。近頃は領議政を立てながらも、若い人材を積極的に登用し朝廷の雰囲気を一新しようと図っている。
更には領議政の娘や養女を近づけず、明姫ばかりを召して寵愛している。いずれ、領議政が意のままにならない王を疎ましく思うのは明白であった。いや、既にその萌芽はあるかもしれない。
今回の陰謀には、領議政も荷担していたと考えるのはごく妥当な考えだ。だとすれば、彼は実の娘王妃に承知で毒を呑ませたことになる。考えようによっては、大妃よりも非情な男だ。自分の血を分けた娘に毒を飲ませるなんて、明姫には信じられない。
私が側にいない方が殿下は平穏に過ごせるの?
明姫の心を哀しい決意がよぎった瞬間であった。
対決
これより時間は少し遡る。
大殿では国王―ユンが執務机に向かっていた。机の上には書類の山が築かれている。朝廷の臣下たちから、或いは集賢殿の学者たち、更には地方官からの上奏もある。いずれもが自らの窮状や国のゆく末を心底から思っての心情を切々と訴えているものばかりだ。
王である彼はそれらに一つ一つ丁寧に眼を通し、玉爾を捺してゆく。更にはそれぞれの訴えに適切な処置を講じねばならない。とはいえ、短期間に、しかも多くの者たちの願いを聞き入れることは到底できず、こんなときはいつも王とは名ばかりの自分を恥ずかしく思うのだった。
集賢殿の学者の一人からの書状をひととおり読み終えた時、ユンはひとりでに破顔した。
何を隠そう、愛する妃との出逢いを思い出してしまったからだ。最初に彼女と出会ったのは宮殿の牡丹園であったが、二度目は漢陽の町外れだった。
両班の極道息子に眼を付けられ困っていた彼女を彼が助けた時、彼は明姫に武官だと名乗った。
―嘘、武官には到底見えないわよ。
と、明姫はいともはっきりと言ってくれた。
そんな彼女にユンは慌てて?では、集賢殿の学者だ?と言い換えたのだけれど。
明姫は彼の正体については頓着しないらしく、ただ笑っているだけだった。
ああ、明姫。私の太陽、私の宝物。
そなたがいつも側にいてくれるなら、私は立派な王にもなってみせよう。
あの日、彼の眼に焼き付けられた眩しい明姫の笑顔は、今もなお彼を魅了してやまない。
そなたの笑顔を守るためには、私はこの玉座さえ投げ出すだろう。
他人が聞けば、国王にあるまじき発言だと非難されるのは判っている。それでも、ユンは本気だった。
この世で欲しいと思うのは明姫だけ、抱きたいと思うのも明姫だけ。もう偽りの愛を愛してもいない女たちに囁くのはご免だ。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ