何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
「あなたこそ、中殿さま毒殺の疑いをかけられている私にそのようなことを言ったと知れれば、同罪と見なされますよ」
明姫は微笑むと、続けた。
「もし殿下にお伝えして下さるのなら、私のことは放っておいてと言って下さい」
「淑媛さま」
楊尚宮はもう何も言えないらしく、それきり言葉を詰まらせた。
その時。取り調べ室の扉が勢いよく開いた。
「尚宮さま」
楊尚宮が振り向き、露骨に顔をしかめた。
「何だ、騒々しい」
見れば、相当急いだものらしく、女官は肩を上下させ荒い息を吐いている。昨日、楊尚宮が?この者は信頼するに足る?と言っていた女官であった。
「実は」
女官は明姫をはばかってか、楊尚宮に近寄ると小声で何やら耳打ちしている。見る間に楊尚宮の顔が蒼白になった。
報告が終わり、女官は今度は静かに去っていった。楊尚宮のただならぬ様子からして、これは相当の出来事が起きたのだと窺えた。しかし、流石に次の瞬間、他ならぬ楊尚宮から伝えられた事実には明姫も絶句した。
「成女官が自害したそうです」
「そんな―」
馬鹿なと言おうとして、明姫は言葉を途切れさせた。いいや、あり得ない話ではない。一体、自分は大妃をどこまで甘く見ていたのだろう。
実の姪であり息子の嫁である王妃に毒を飲ませてまで、明姫を追い払おうとしたのだ。その昔、大妃はまだ先王の王妃であった頃、王の寵愛を一身に集めていた側室を死ぬほど追いつめ、自害させた。
そんな大妃であってみれば、息子が反対を押し切って迎えた側室など所詮、煩い眼前の蠅のようなものだろう。蠅を殺すのに、手段を選ぶ必要はない。
茫然としている明姫に、楊尚宮が申し訳なさそうに頭を下げた。
「真に申し訳ございません。成女官の身柄は監察部の一室にて厳重に保護していたのですが、どうやら、警護の女官が交代する隙に自害したらしく」
明姫は面を上げて、ようよう訊ねた。
「本当に自ら生命を絶ったのですか?」
誰もが躊躇するような怖ろしい謀に荷担するような肝の据わった娘だ。少々のことで自害などするとは考えられない。
しかも計画はすべて筋書きどおりに運んでいた。事がすべてうまくいき、邪魔な明姫がこの世から消え去った暁には、成女官もそれなりの報酬―見返りを得られるという約束は取り付けてあったはず。
なのに、今、成女官が自害するというのも妙な話ではある。明姫は確信した。
成女官は消されたのだ。
明姫の思惑に同調するかのように、楊尚宮も頷いた。
「私も淑媛さまと同じ考えです。事が計画どどおりに進んでいる今、成女官が自害などするはずがありません。成女官は間違いなく殺されたのでしょう」
恐らくは自害に見せかけて。
続きの言葉を明姫はまたしても飲み込んだ。
明姫の身柄は引き続き、監察部預かりとなったが、それからふた刻後に、楊尚宮が再び顔を覗かせて、その後の経過を教えてくれた。
成女官の自害に伴い、後宮の彼女が起居していた部屋の捜索が大々的に行われという。つまり、明姫の殿舎の一角にある成女官の居室のことだ。成女官は相部屋であったが、そこから遺書が出てきたというのだ。
「遺書? それもおかしな話ですね。それでは、成女官は端から自害を覚悟の上で監察部に出頭したことになる」
首を傾げる明姫に、楊尚宮も頷いた。
「仰せのとおりです。あの者の態度を思い出しても、思い当たるようなところは全然、ありませんでした。仮に自害を覚悟の上で出向いたのだとしても、何故、今なのかという疑念が残りますし、それなら、遺書を懐にでも忍ばせているのが自然だと思われます」
側に見張りの女官がいるとしても、今朝までに舌を噛みきって死のうと思えばできたはずだ。
「成女官を殺した者もむろん、それは考えたでしょう。ですが、それができなかったのかもしれません」
恐らくは成女官を殺して遺書を懐か袖に入れようとした矢先に、監察部の女官の足音が聞こえ、犯人が逃げたとか。やむなく、それで成女官の居室に遺書を忍ばせた―?
明姫の思考はめまぐるしく回転する。
「気になる点があります。成女官はどのようにして死んでいたのですか?」
問えば、楊尚宮は思案げに眼を伏せた。
「首を吊っていました。自らの上衣を破き、それを繋いで紐を作っていたのです」
明姫は唸った。ますます不自然なことばかりだ。上衣を破くといっても、人ひとりが首を吊るだけの長さと頑丈さの紐を作るとなれば、かなりの布地が要る。とすれば、上衣は脱ぎ棄ててしまわなけばならない。
上衣の下は胸に布を巻いただけの姿になってしまう。年頃の娘が半裸に近い姿を死後も人眼に晒す覚悟で首つり自殺をするだろうか?
「楊尚宮」
明姫は手で差し招き、顔を近づけた彼女に囁いた。
「幾ら首を吊ったように見せかけても、死因はごまかせない。恐らく成女官を殺した者は、先に彼女を首を絞めて殺したはずです。であれば、成女官の首に手形が残っているはず。早急にそれを確かめて下さい。後は信頼できる医官に成女官の死因が本当に首つりによるものなのか、それとも首を絞められた窒息死なのかを検死させるのです」
熟練した医者ならば、識別するのも不可能ではないはずだ。
「判りました。宮殿内の医者ではなく、外部の医術に精通した者に検めさせましょう」
明姫はそこで息をついた。万が一、それで成女官の死因が確定したとしても、この先、明姫の嫌疑が晴れる材料になり得るだろうか。しかし、今のところでは打てる手はすべて打っておいた方が賢明だ。
証拠は幾つでも多い方が良い。手持ちの札が多くあれば、それだけ活路を開ける可能性は高くなる。いつ、どの札を切り札として出すか選択を誤らなければの話だが。
「後はもう一つ、判ったことがあるのです」
楊尚宮もまたいっそう声を低めた。
「実は、昨日の中に成女官の実家にも監察部の者を遣わしたのですが、こちらも奇妙なことになっておりまして」
成女官の実家は零落した両班家ということになっている。事実、その届け出に間違いはなかったのだが―。
「その長らく逼塞していた実家が最近、妙に羽振りが良いとの話でした」
楊尚宮と明姫は思わず顔を見合わせた。
「数ヶ月前くらいから、荒れ放題であった屋敷も手直しがされ、暮らし向きも見違えるように豪勢になったと」
しかも、成女官には八つ違いの兄がいて、これは科挙に何度挑戦しても不合格、仕官の口もないままに歳だけを重ねていたのに、突如として漢城府の下級役人ではあるが仕官が叶ったという。
更に病気で寝たきりの母親には名医といわれる医者が定期的に往診に来始めたので、近隣の人々は一体、何があったのかと眼をそばだてていたというのだ。
「娘が一人いたから、どこか金持ちの家の妾にでも囲われたのかもしれないなどとまで噂していたようです」
「そう―」
明姫は呟いた。これですべてが符合した。恐らく成女官は親の治療費と兄の仕官を餌に釣られ、怖ろしい謀に荷担したのだ。
二十歳という歳で見習い女官から一人前になった、つまり昇格が遅かったのも納得できる。大抵は見習いから昇格する女官は、幼くして入宮した者が多い。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ