何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
そのときの楊尚宮の心の声が明姫に届かなかったのは当然ではあるが、明姫の凜とした佇まいに楊尚宮が感じるものがあったことは明姫自身も理解できた。
「しかし、残念なことに証拠が挙がっております」
とはいえ、証拠がここまで揃っている以上、明姫の人柄だけで?無関係?と判断はできない。
明姫は厭わしいものでも見るように、机の上を一瞥した。例の針の刺さった人形と呪符である。
「そのようなもの、何とでもでっちあげられる。監察部に長年いたそなたであれば、そのようなことは百も承知でしょう」
「確かに仰せのとおりです。これしきの証拠ならば、いかようにもこしらえることはできます。また、今回の事件はあまりにもできすぎています。もっともらしい証拠が中殿さまのご寝所の床下から出てくるというのは、かえって事件そのものが何ものかによって仕組まれていると示唆しているようにも思えてなりません」
楊尚宮はここでひと息ついた。傍らに控えていた女官に目顔で下がるように言いつける。女官は一礼して静かに取り調べ室を出ていった。
「壁に耳ありと申しますゆえ。あの者は信頼に足る者ではありますが、ここから先の話はやはり、私と淑媛さまだけの方がよろしいでしょう」
楊尚宮は微笑み、淡々と話を続けた。
「私はこれまでにも幾多の事件に当たりました。それらを扱った上での勘ですが、本当の犯人というものは、これほどにできすぎた証拠など残さないものです。もっと上手に立ち回るというか、証拠や痕跡などできるだけ残さないように行動するのが常です。しかし、今回はまるで、証拠を見つけて欲しい、捕らえて欲しいとでも言いたげに痕跡をこれ見よがしに残している。それだけでも、これが仕組まれたものだという予測は容易につきます」
「―」
明姫はかすかな期待を込めて監察部のベテラン尚宮を見つめる。だが、返ってきたのは、やはり彼女が想像していたとおりのものだった。
楊尚宮は静かな瞳で明姫を見返した。その視線はわずかに痛ましげですらあった。
「されど、百歩譲って淑媛さまが無実だとしても、これらの証拠がまた、まったくのでっち上げられたものだと言い切れるだけの根拠もないのは事実なのです」
つまり、現状では明姫が無実だと証明はできないと言っているのだ。
「とにかく、我々も淑媛さまの無実を証せるように全力を尽くす所存でおります」
明姫はハッと面を上げた。
「楊尚宮」
「はい?」
続きを眼で促され、明姫は言った。
「成女官は今、どうしていますか?」
楊尚宮も明姫の意図が判ったらしく、頷いた。
「成女官の身柄は今、監察部で保護しています」
明姫の無実を証せるかどうか。実のところ、その鍵を握るのは成女官しかいない。成女官が誰かによって今回の事件が明姫の仕業と見せかけるように細工しろと命じられたのは明らかだ。だとすれば、今後は成女官から真実を訊き出すしか道はない。
明姫の瞼に一人の女人の面影が浮かぶ。下位の側室にすぎない明姫が国王の母と対面することは殆どない。しかし、たまに遠くから姿を見る大妃の年齢を感じさせない美貌は、明姫が愛してやまないユンとうり二つであった。
大好きな男の母にそこまで憎まれていると思えば、やはり哀しかった。別に大妃が今回の一件を仕組んだというそれこそ証拠があるわけでもない。しかし、逆に姪である王妃に毒を飲ませてまでも、明姫を咎人に仕立て上げたいのだという大妃の強い意思が悪意を伴ってひしひしと伝わってくる。
娘のように可愛がっている王妃に毒を盛る―、幾ら致死量に至らない微量だったとしても、毒薬の効果は体質によっても違ってくる。敏感な人であれば、致死量でなくても死亡することはあるのだ。
まかり間違えば、王妃は死んでいたかもしれない。考えようによっては、大妃は一か八かの賭けに出た。大妃という女の冷酷で空恐ろしい一面を見せつけられたようで、明姫は寒くもないのに、膚が粟立つような恐怖を覚えた。
明姫を排斥するために、大妃がいよいよ本腰を上げたのだ。
「成女官からは引き続き話を訊くことに致します」
楊尚宮は明姫の眼を見ながら、安心させるように言った。
「どうぞ淑媛さまもお心を強くお持ちになり、お待ちくださいますよう」
王妃暗殺の疑いをかけられた身は、取り調べ室で一夜を過ごすことになる。明姫はその夜、椅子に座ったままで夜を明かした。
一夜明けて、楊尚宮が再びやって来た。その沈痛な表情には疲れが滲んでいた。明姫は約束どおり彼女が一晩中、成女官から真実を引きだそうと尋問を続けたこと、更に、そこまでしたにも拘わらず、ついに望むような結果は得られなかったことを瞬時に悟った。
「真に申し訳ございません。淑媛さまにあのように申し上げたにも拘わらず―」
楊尚宮はうなだれ、疲れ切った顔で告げた。
「思いの外に成女官は強情で口を割りません。このままでは埒があかず、淑媛さまは義禁府送りになってしまいます」
「―」
明姫は自分でも愕くほど静かな気持ちで、その言葉を聞いた。
王の側室が王妃殺害の容疑で義禁府送りになる―。その先は既に?死?を意味していた。
楊尚宮が静かに言った。
「こうなっては、国王殿下に事の次第をお伝えしてはいかがでしょうか」
それが苦肉の策だとは判っていた。明姫を熱愛してきた国王であれば、みすみす愛妃が王妃殺害の咎で義禁府送りになるのを見過ごすはずがない。
事がここまで悪化しては、最早、明姫を助けられるのは国王しかいない。その提案が心底から自分の身を思ってのものだと明姫はよく判った。楊尚宮の態度は、最初と違って随分と好意的に変化していた。
だが、明姫はありがたく思いながらも、その申し出をきっぱりと断った。
「殿下にはお伝えしないでください。今、中殿さまの御事で痛められている殿下のお心をこれ以上かき乱したくはないのです」
それに、事件発生からこれだけの時間が経過していれば、一応の報告は既に大殿に届いているだろう。明姫の身柄が監察部に拘束されているとユンが知らないはずはない。
それでも、ユンが動かないとすれば、それは彼なりの考えがあって―恐らくは国王としての立場ゆえ、動けないのだと察せられた。
いつか彼は言っていた。
―ただの一人の男であれば叶うことも、玉座に座る身であれば叶わない。
仮にユンが今、どれだけ自分を助けたいと思ってくれていたとしても、彼の国王としての立場が許さない。彼はそういう人なのだ。自らに課した王としての責任感に可哀想なほど忠実であろうとしている。
もし、明姫がなりふり構わず泣いて縋ったたとしたら、ユンはその責任感をかなぐり棄ててでも助けてくれるかもしれない。しかし、それではユンは?寵妃のために私情で国法を曲げた愚かな王?と後世から烙印を押されるだろう。
それだけは彼に―愛する男にさせてはならない。
「義禁府にゆけと言うのなら、私は潔く従いましょう」
そう告げた明姫はうっすらと微笑んでさえいた。
冷酷な鬼尚宮と怖れられている楊尚宮が眼を潤ませていた。
「あなたのようなお方にこそ、殿下のお側にお仕えして頂きたいと私は思います。淑媛さまこそ、世子さまのご生母になって頂きとうございます」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ