何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
明姫は立ち上がった。別に国王の寵愛に奢るつもりはさらさらないけれど、仮にも王の側室に一介の尚宮が立ったままの体勢で見下ろして物を言うのは礼儀知らずだ。しかし、今ここでそれを指摘すれば、この気性の烈しい尚宮は余計にいきり立つに違いない。
「これは申し遅れて失礼いたしました。先刻の女官があまりに無礼なものゆえ、余計な刻を要したようです」
この物言いには滅多なことで怒らない明姫もムッときたが、極力波風を起こしたくない一心で自分を抑えた。後宮内での揉め事は内命婦(ネイミョウプ)のこととして、後宮内で処理されるのが通例であり、たとえ国王といえども口は挟めない。つまり、後宮の長である王妃に最終決定権があるのだ。
今、王妃が倒れて容態が思わしくない。ユンは元々優しい人だから、心配しているに違いない。それでなくとも妻の病気で心を痛めているはずのユンにこれ以上要らない負担をかけたくなかった。
傍らに控えているヒャンダンはもう射殺しそうな眼で楊尚宮を睨んでいる。
言うのなら早く言えば良いのに、楊尚宮は勿体ぶった口調で話し始める。
「実は一刻ほど前、淑媛さまにお仕えする女官が監察部にやって参りました」
その言葉に、ヒャンダンがピクリと反応した。生意気な小娘にひと泡吹かせてやれると歓んでいるのかどうか、楊尚宮の細い眼がきらっと光った。
「この殿舎の女官が? 詳しく話を聞かせて下さい。楊尚宮」
それでも明姫は平然とした態度を崩さず、この年上のベテラン女官に対峙した。明姫が予想外に取り乱さないため、楊尚宮は嬉しくなさそうである。
「もちろんです」
楊尚宮は頷くと、説明を始めた。
「成芙蓉(プヨン)といいまして、先頃、こちらの殿舎に入ったばかりの新参者だとか申しておりますが、間違いはございませんでしょうか、淑媛さま」
明姫はヒャンダンが頷くのを見て、顎を引いた。
「間違いありません。確か大妃さまのご紹介だとかで参った者です」
「その女官が監察部に直訴して参ったのです」
「直訴とはまた、物騒な物言いですね。一体、何を訴えたのか」
明姫がわざと心当たりがないと言いたげに首を傾げると、楊尚宮は抑揚のない口調で告げた。
「中殿さまがお倒れになった一件で、是非とも話したいことがあるとのことで、これは我らも捨て置けずとすぐに話を聞きました」
「その話とは?」
「それはこの場ではお話し致しかねます」
「話の内容を少しも明かさず、私に何をしろと言うのですか?」
「淑媛さまにはこれより、我らと監察部においで頂きます」
「―!」
告げられた当の明姫よりも、ヒャンダンの方が息を呑んだ。
「監察部に連れていくのは、私に何かしらの嫌疑がかけられているせいでしょう。であれば、連行される私には、どのような罪で疑われているかを知る権利はあるはずです」
楊尚宮は眼を剥いた。たかだか色香で若い王を陥落させた小娘だと侮っていたが、流石に英邁な王と謳われる直宗の心を射止めた娘だけはある。その時、監察部で長年勤め上げ、数多くの難事件を解決に導いてきた楊尚宮はは明姫の見方を変えたらしい。
「実はこの件は王命によって一切外部には他言無用となっております。ゆえに、すべてを知りたいと思し召す淑媛さまのお心はごもっともなれど、我らとしてはそのご意向に添えかねるのです。ただ、一つだけ申し上げるとすれば、今回、中殿さまがお倒れになった件に、淑媛さまが深く関わられているとその成女官が申しました。それゆえ、淑媛さまには心ならずも我らの許においで願うことになりました」
打って変わって丁重な口ぶりになった楊尚宮に、明姫は頷いた。
「そう、ですか」
今の楊尚宮の言葉で明姫はすべてを悟った。これは罠だ。しかも怖ろしく巧妙に仕掛けられた―。
もちろん、身に憶えがあるはずもなかった。しかしながら、今ここでどれほど弁明をしたところで、何の意味もない。むしろ泣きわめけばわめくほど、?年若い国王を虜にし、邪魔になる王妃を謀殺しようとした妖婦?の汚名を着せられるだけだ。
「それでは、監察部までご同行お願いします」
楊尚宮のひと声に、明姫は軽く頷いた。ここで刃向かうことには何の益もない。かえって自分の置かれた立場を悪くするだけだと嫌というほど承知している。
「判りました」
部屋の外に待機していた女官が開けたものか、入り口の扉がすっと音もなく開いた。
明姫はチョゴリの裾を軽く払い、そこにありもしない埃を払う。そうでもしなければ、気丈な彼女も自分が何を口走るか判らなかったからだ。
唇を噛みしめて回廊へと出る。そこから庭へと至る短い階(きざはし)を踏みしめるようにゆっくりと降りた。
それにしても、大妃の自分ヘの憎しみがどれほどのものかを、今初めて知った想いであった。むろん、大妃にユンの心を奪ったけしからぬ女として憎まれていたことは知っている。しかし、迂闊にもここまで憎まれているとは考えていなかった。
大体、生まれてからの十六年間、そこまでの憎悪を他人から向けられたことはない。幼くして陰謀のため両親を失いはしたものの、明姫の側には祖母や伯母、守ってくれる人が常にいた。
今こそ、明姫は大妃の怖ろしさと自分に向けられた憎悪の大きさを思い知らされたのだった。
庭へと降り立つと、さっと監察部の女官たちが近寄ってくる。いずれも楊尚宮の部下として数々の事件に当たってきたやり手女官たちばかりであった。
数人の女官たちに脇を囲まれ、明姫は楊尚宮に促され歩き出した。
「このお方をどなたと心得る。国王殿下のご寵愛を一身にお受けになるご側室ですよ。このような勝手な真似をして、殿下がお知りになれば、ただで済むとお思いか?」
ヒャンダンが悲鳴のような声で叫ぶ。悲痛な声がしんと静まった空間に響いた。
明姫はそっと背後を振り返った。ヒャンダンは眼に涙を浮かべていた。
「淑媛さま―」
「良いのです」
明姫は薄く微笑み、ヒャンダンに諭すように言った。
「私は何もしておらぬ。優秀な監察部のことゆえ、きっと嫌疑はすぐに晴れるでしょう」
「淑媛さま!」
ヒャンダンは耐えられないというように首を振り、うつむいた。
「それでは、淑媛さま。参りましょう」
再度楊尚宮に言われ、明姫は頷いた。大勢の女官たちの前で、無様な姿は見せたくない。それこそが大妃の思う壺ではないか。
「後のことを頼みましたよ、ヒャンダン」
明姫はもう一度、ヒャンダンに微笑みかけ、静かに歩き出した。それについて両脇を守るように付き従う監察部の女官たちも歩き始める。
「淑媛さま、淑媛さま!」
ヒャンダンがいつもの沈着さには似合わぬ狼狽えぶりを見せ、行列に取りついた。しかし、監察部の女官たちに寄ってたかって振り払われてしまう。
「行ってはなりません、淑媛さま」
ヒャンダンはその場にへなへなと座り込み、号泣した。
今の直宗の世ではなくても、大妃や王妃の妬みを買い、監察部に連行された側室たちはいる。その中の大部分の妃たちは二度と生きて後宮に戻ることはなかった。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ