何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
「承知致しました」
一礼してから静かに出てゆく内官を見つめ、ユンはがっくりと執務机にうち伏した。
自分は何ということをしでかしたのか。中殿も王妃である前に、ただの女なのだ。自分が新たに明姫という心を捧げる女とめぐり逢った今、王妃が心中穏やかであるはずがない。
幾ら夫婦仲が冷え切っているといっても―いや、冷え切っているからこそ、余計に今は中殿に優しく接してやるべきだった。苛立った妻が多少の嫌みを口にしたとて、すぐに応戦して妻を傷つけるような言動は慎むべきであったのだ。
ユンは眼を瞑り、やりきれない気持ちで首を振った。今ほど自分が残酷で嫌な人間だと思ったことはない。いや、妻にとっては恐らく、自分はこの国で最も冷酷で情け知らずの男なのだろうと思うと、余計に自己嫌悪に陥った。
彼は昏い瞳を机の蝋燭に向ける。王のみが使用する天翔る龍を浮き彫りにした蝋燭が勢いよく焔を上げて燃えている。
その夜は明姫の許を訪ねる気力もなく、ユンは遅くまで大殿で何をするでもなく茫然と座っていて、黄内官を大いに心配させた。
陰謀
そして、更にその翌日、事態は急展開を迎えた。その日は朝から、からりと晴れた秋空が都の上にひろがっていた。事が中宮殿、しかも王妃の毒殺未遂疑惑に拘わっているだけに、ユンはその調査を極秘裏に行わせた。
後宮と密接に関係しているのは監察部(カムチヤルブ)である。この部署の人員は女官で構成されており、後宮内で起きた事件や揉め事などの調査、真偽解明、引いては解決を担当する。事を公にしたくないのであれば、まずはこの監察部を動かすのが妥当な判断であると思われた。
この監察部は女官たちばかりだとはいえ、なかなか優秀である。捕盗庁や義禁府(ウィグムフ)でも解決できなかった難事件を過去に幾度も見事に処理した実績がある。
やはり後宮内で起きた事件などについては、後宮やそこでの暮らしに精通した者でなければ見逃してしまうような問題点もあるのだ。
その日は夜明けと共に監察部の女官たちが後宮内のすべての調査を開始した。もちろん、大妃殿は別格であるが、他には王の三人の側室たちの殿舎も隈無く調査は行われる。
午前中はさしたる成果もなく過ぎたのだが、午後になってから、大騒ぎになった。というのも、中宮殿の建物―もっと的確にいえば王妃の居室の床下から人型が出てきたのである。人型には王妃の生年月日と名前が記されており、同時に豪奢な着物を着せられた人形まで見つかった。
その人形には、無数の針がこれでもかというほど突き刺してあり、第一発見者の監察部の女官は幾ら事件慣れして度胸が据わっているとはいえ、流石に血の気が引いたほどの殺気とおぞましさを感じた―と、その感想が後宮中に伝えられた。
人型は紛うことなく呪符であった。王妃を何ものかが呪い殺そうと恨みを込めて、当の王妃の寝所の下に忍ばせたのだ。それらの証拠を眼にした衝撃のあまり、王妃はその場で昏倒し、再び中宮殿が上を下への大騒動になるというおまけまで付いた。
確たる証が出たところまでは良かったものの、それから先は一向に進まない。三人の側室たちの殿舎からは何も出てこなかった。
が―。それから時を経ずして、更に事態は急転した。監察部に一人の女官が直訴に及んだのである。すぐにその者の取り調べが行われ、それから約一刻後、監察部の女官数名が明姫の殿舎を訪れた。
その時、明姫はお付きのヒャンダンと話し込んでいる最中であった。王妃が昨日、急に倒れた知らせはもちろん、ここにも届いている。どうやら急性の食あたりらしいと伝えられていたが、その容態は依然としてはかばかしくないと聞き、明姫は都の郊外の寺まで平癒祈願に行こうと話していたところだった。
「しかしながら、こう申し上げては何ですが、中殿さまは大妃さまの姪御さまに当たられます。大妃さまは淑媛さまを眼の仇にしておられます。淑媛さまのお心がけは女人としては立派なものだと思いますが、正直、そこまで淑媛さまがなさる必要があるのでしょうか?」
暗に王妃もまた大妃同様、明姫を快くは思っていないはずだと告げていた。
「ヒャンダンの言うとおりかもしれないわね。でもね。殿下は中殿さまを大切に思われている。いつだったか、私にも仰せだった。中殿さまは糟糠の妻だから、粗略にしてはいけないのだと。殿下にとって大切なお方ならば、私にとってもまた大切な方。それに、中殿さまはこの国の母でいらっしゃるのだもの」
現に、昨夜はユンが明姫の許を訪ねることはなかった。ほぼ毎夜のように訪ねてきて寝所を共にする国王にしては珍しいことだ。
しかし、王妃が突如として倒れたその日に、ユンが来ないのは理解はできるし、道理だともいえた。ヒャンダンなどは、
―何故、殿下はいらっしゃらないのでしょう。
と、首を傾げていたけれど、明姫は王妃の身を案じ、またその立場を慮るユンの心境を正しく理解していた。
急に倒れた日、良人である国王が側妾の許に行って共に夜を過ごしたと知れば、王妃はどれだけ傷つくことか。更に、王妃の妻としての、後宮最高位の立場にも泥を塗ることになる。
ヒャンダンはあからさまに溜息をついた。
「淑媛さまに、中殿さまが糟糠の妻だと仰せになった殿下もまた罪作りな男―、もとい、殿方でいらっしゃいますね。淑媛さまは大体、お人が良すぎますよ。私がもし恋人や良人にそんな無神経なことを言われたら、間違いなくその場で殴り倒しますわ」
などと、そこは気心の知れた主従というよりは友達同士のこと、つい本音が出てしまう。
明姫はいかにもヒャンダンらしい物言いに、つい笑い声を上げた。
「いやだ、ヒャンダンったら」
そこで、扉越しに外から咳払いが聞こえてきて、二人は思わず顔を見合わせた。
「淑媛さま、監察部の楊(ヤン)尚宮にございます」
「お通しして」
明姫が言うと、ヒャンダンが立ち上がり急いで扉を開く。
「お話が弾んでいらっしゃったようにございますが、中殿さまがご不例のこの時、仮にも国王さまのご側室であるお方がそのようにはしゃいでおられるのは、いかがなものでございましょう。見ようによっては不謹慎とも受け取られかねませんぞ」
楊尚宮は三十過ぎの痩せぎすの女だ。凄腕の尚宮として知られるが、その分、情け容赦はないと若い女官たちから怖れられている。
「楊尚宮さま、それは少しお言葉が過ぎましょう」
ヒャンダンが尖った声音で指摘するのに、楊尚宮がキッと眦をつり上げた。
「黙れ。監察部の筆頭尚宮に、一介の女官が指図するつもりか? たかだか側室に仕える女官風情であろう」
「何ですって?」
曲げず嫌いのヒャンダンが思わず言い返しそうになるのを見て、明姫が目顔で合図を送った。
―駄目よ。それ以上、言わないで。
明姫のいつになくきついまなざしに気圧され、ヒャンダンは渋々口をつぐんだ。
楊尚宮が依然として眦をつり上げたまま、明姫を見下ろす。
「いかに国王殿下のご寵愛が厚いからといって、女官の教育を怠るのは考えものかと思われます、淑媛さま」
「それでは、単刀直入に訊きます。そなたが今日、私を訪ねてきたのは何ゆえです?」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ